Double flat
雨宿りしていた第一音楽棟の真下。屋根から雫がぽたぽた落ちて来る。
濡れてはいけないと抱えていたチェロを入れたケースを持ち直して歩き出そうとした。
ピアノの音がした。雨音でかき消されていたのだろう。美しい音色だった。
知っている曲だ。雨上がりじゃなかったらケースを壁に立てかけてチェロを弾けたのに。
濡れた芝生を踏んで俺は足を一歩踏み出した。
あのピアノの音は、彼に違いない。
俺の伴奏を断ったあいつだ。聞き間違うはずがない。
[ Double flat ]
試験にパスするためには自分がどれだけ練習しても、どれだけ素晴らしい演奏をしても駄目だ。
伴奏者を見つけないとまず試験を受けられない。
さすがに本番1週間前になっても見つかっていないと先生がやれやれと紹介してくれるらしいが
1週間そこそこで良いアンサンブルができるとは思えないので伴奏者選びは重要だ。
ピアノ専攻の試験演奏を聴きに行って「このピアノで演奏したい」と思った音があった。
自己主張し過ぎず、正確で誠実で、華やかさには少し欠けていたけど心地よい魅力を持っていた。
名前を覚えて、ピアノ専攻の知り合いのつてで連絡先を手に入れてメールをした。
会う約束を取り付けて直接お願いをした。しかし、長い沈黙の後「ごめんなさい」と言われた。
失恋をしたような気分だった。
「…もう伴奏いくつも持ってる、とか?」
「それも…あります……けど」
「他にも?」
聞いたけれどとにかく無理です。ごめんなさい。と言われてそれっきりになった。
俺の演奏は結構癖が強いから合わせにくいと思ったのかもしれない。
それとも彼のお眼鏡にかなわなかったのかもしれない。
彼が俺の演奏を知っているかどうかは分からなかったけれど。
それから少しして俺の伴奏は別のピアノ専攻の知り合いに引き受けて貰うことになった。
悪くない。音も曲の解釈も合わせも。
悪くないけど、あの音が欲しいなと思ってしまう自分に苛立った。
「アキト」
「んー?」
「…伴奏、俺で良かったの?」
「何言ってんの。最高だよ、おまえは」
俺がそう言って笑うとヒナタはほっとしたように微笑んだ。
その表情に俺は胸がチクリと痛んだ。
「ミズノに伴奏頼んだって…聞いてたからさ」
「まああっさり断られたけどな」
「ちょっと意外だった。あの人、アキトのこと好きだと思ってたから」
「好き……?いや、むしろ嫌いに近かったと思うんだけど」
「そうかな」
好きだったら断ったりしないだろう。普通は。
しかも好きになられるほど俺は彼と接触したこともないし、俺は学年主席の奏者という訳でもない。
「とにかく。俺はお前を選んだんだから」
「うん」
「合わせ、明日の13時からで良い?」
「ん、大丈夫。またな」
ヒナタと別れた帰り道。
夕焼けが綺麗だったので土手の方へ上って遠回りをすることにした。
陽を受けてキラキラと反射する水面。
なんとなく小さな石を投げてみた。ぽちゃん、と音がした。
すると少ししてまたぽちゃん、と音がしたので振り返ると彼が居た。
「あ、」
「こんばんは…」
「お前もこっち方面?」
「はい」
学年は一緒なのだが…俺が浪人していることを知っているのか彼は敬語だった。
「ピアノ……」
「ああ。なんか悪かったな」
「そんな…!こちらこそ……すみません」
「良いって。あの後すぐ決まったし」
俺の言葉を聞いて一瞬傷ついたような顔をしたミズノを不思議に思いながら俺は続けた。
「俺の演奏、上手い訳じゃない上に合わせ辛いだろうし」
「そんなことないです!全然、その、すごく…好きです」
「え…?」
ヒナタの言葉がよみがえる。
好き?俺の演奏が?
なんだか話がかみ合わなくて俺は混乱した。
「上手く言い表せないんですが…人を引き込むというか惹き付けるんです…あなたの音は」
「……そ、そうかな…?」
「優しいのに悲しい…穏やかなのに感情が溢れてて…」
ミズノの口調が茶化しているようには思えなくて黙り込む。
「だから俺の伴奏じゃ役不足だって思って」
「な……お前、だから断ったのか?!」
「はい」
「お前……学年で主席争う人間じゃん…」
どうやら嫌われてた訳ではなさそうだ。
それから小一時間音楽の話とかくだらない雑談とかをして俺は家に帰った。
実技試験、ミズノに聞いて欲しいなと思った。
――…
「なんか良いことあった?」
次の日の合わせでヒナタが俺の顔をまじまじと見ながら問いかけた。
「なんで?」
「いつもよりもっと良い音出てた気がする」
「そうかな」
やっぱり演奏はメンタルがすごく反映される。
もやもやが消えただけで音楽に向かう気持ちがこんなにも真っ直ぐになる。
実技試験まであと1週間を切った。
空は澄み渡る青だった。
to.
作品名:Double flat 作家名:愛架