桜の木の下には
日があるうちは観光客がたくさんいて、花見客が宴会をしている場所だが、日が翳れば誰もが帰途につく。ゆっくりと暮れなずんでいく世界で、うっすらと色づく桜は、橙色に染められて、やがて紫を纏い、やがては、白く輝くようになる。その頃には、人っ子一人いない空間だった。
滝までの遊歩道は暗くて、進むことが出来ない。かけられた橋の上で、散っていく桜を見上げていた。
どこか幻想的で、現実ではないような空間が落ち着いた。
・・・このまま、誰かが連れて行ってくれればいいのに・・・・
気分的に疲れていて、そんなことを、ぼんやりと考えていた。よく小説であるように、人ではないものに、惑わされて桜の養分になるのは、静かで良いと、そんなことを思った。
欄干から手を伸ばした。ちらちらと流れてくる花びらが、手に触れる。
「お連れいたしましょうか? あなた様。」
滝のほうから声がした。不思議と怖くない。
「そうしてもらえると有難い。少し疲れたから。」
できれば苦しまないで眠るように、がいい、と付け足したら、笑い声が響いた。
「苦しむことはありません。眠りたいなら眠ればよろしいのです。何年でも何十年でも、お好きなだけまどろめば、よろしいのですよ。」
「・・それはいいな・・・」
ただ眠るだけなら、楽な消え方だ。何も考えなくて、ただ、桜の養分となって眠るなら気持ちいいだろう。
「ただし、未練はいけません。その心にお持ちのものは捨てていらっしゃいませ。」
「え? 」
「お気づきではありませんか? あなた様には、未練がございます。それでは気持ち良くお連れすることは叶いません。お苦しみになってもよろしければ、そのままでも? 」
一陣の風が、たくさん花びらを散らせる。
月明かりで、それは、ききらと輝くように舞い落ちていく。魅せられているのだろうか。
「ありますか?」
「ございます。まだ、捨てきれぬものがあるから、あなた様は、そこから動かれないのではありませんか?」
確かに、橋の上にいた。あちらとこちらの繋ぎ目に立っている。橋を渡りきってから、手を伸ばせばよかったのに、こんな中途半端な場所では、そういうことなのだろう。
「・・・なるほど・・・そうですか・・・」
「はい、然様でございます。」
「このままでは苦しいですか。」
「ええ、悔いて眠るのは、辛ろうございます。それに、悔いた心は、花を枯らせてしまいます。」
「じゃあ、この花は、未練のない人のものなんですね。」
「然様でございます。捨てていらっしゃいますか? 」
もう一度、尋ねられた。ここには眠らせてもらえない。もし、ここで手を取っても、この桜の養分にはならないのだ。
「出直してまいります。そのうち、棄て去って、きれいになったら、寝かせてください。」
「はい、心よりお待ち申し上げております。ここの桜は、みな、まだ若く、養分が足りませぬ。どうぞ、お忘れになりませんように。」
それっきり声は途絶えた。心に残っている未練を捨て去れたら、眠りにこようと、踵を返した。できれば、花の咲く季節に間に合うように。