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会社を辞めてくれ

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『会社を辞めてくれ』

 大木は二十人たらず会社を経営している。苦学の末に大学を出た後、四十歳のときに独立し、ようやく今日の会社にした。決して順風満帆ではなかった。資金繰りに苦しんだことは数知れない。大切な妻も失った。それでも彼を支えたのは、父の悔しさである。彼の父は二十年の勤めたというのに、経営の都合で退職金もなく退職させられたのである。その日、父は母にぽつりと退職金をもらえなかったと悔しそうに呟いた。無口であまり感情を見せる父ではなかっただけに、そのときの父の顔を今でも忘れない。自分が経営者になったら、従業員にそんな思いをさせまいと、がんばってきた。

 会社を設立した当初は良かった。地元の大手企業を大きな取引先として毎年売上を伸ばしてきた。ところが、数年前、その大手企業が海外進出して工場を縮小したため、取引が年々減り、そのため売上が減少傾向に陥ってしまったのである。そんな中、勤続十年になる山下が病で倒れた。昨年の春のことである。彼は三年前に結婚し、幼い子供がいた。病はひどく、誰がみても現場に復帰するのは難しい状況だったので、やむなく辞めてもらうことにした。十分な退職金が払えるほどの余裕はなかったが、それでも経理担当に言った。
「山下の退職金、二十万上乗せしてやれ」
「よいのですか? 退職金を出すだけで精一杯なのに、さらに上乗せしたら、ますます資金繰りが厳しくなってしまいますよ」と経理担当はあきれた顔をした。
「いいんだ。せめての気持ちだ」
「伝わるでしょうか?」
「伝わるかどうかじゃない。こっちの気持ちの問題だ」

 休みの日、退職金を持って山下の家に行った。家の前についたとき、あまりの古さに驚いた。屋根も壁もぼろぼろであった。
山下はあいにく不在で、彼の父親が応対した。
大木は事情を説明し、退職金の入った封筒を差し出した。しばらく間をおいて「会社を辞めていただきたい」と頼んだ。
 黙って聞いていた父親は、遠慮なく封筒の中を見た。さっきまで笑顔が憮然とした表情に変わった。
「社長さん、休みの日も働くだけ働かせておいて、役に立たなくなったら、こんな金額で、ぽいと捨てるのですか? 十年、社長の下で働いたのですよ」と言った。
これから来月までの資金繰りのために銀行に行き、頭を下げなければならない。そんな苦労を毎月のように繰り返している。大手の取引き先が縮小して、部品の受注が三割も減ったのだ。売上をどう増やすか。資金繰りをどうするか。社員の給料をどう払うか。みな大木の手腕にかかっている。その苦労は並大抵のことではない。だが、そんなことを山下の父親には言えない。言ったところでどうにかなるわけでもない。返す言葉がなかった。ただ、お願いしますと言うだけだった。
 帰るとき、山下の奥さんが見送った。
 別れ際に、奥さんが「家を建てかえる夢を諦めました」とぽつりと呟いた。
 春の会社ぐるみの花見のときに、山下が家を建て替える夢を楽しげに語ったのを思い出した。微笑んでいるが、悔しさが溢れているのは、容易に分かった。その姿に父の顔がダブった。自分がいつしか悔しさを加える側にいることに気づき、彼の足が震えた。泣くこともできない。かといって直視することもできない。儀礼的に深々と頭を下げて辞した。
 大木は歩きながら考えた。同じ思いを他の従業員にさせないためにも、ここは踏ん張るしかない、そう自分に言い聞かせた。しかし活力があまりわいてこなかった。もう彼も五十半ばなのである。それに現実の厳しさも痛いほど知っていた。現実は思いだけではどうにもならないのである。歩く足取りは、まるで鉛を引きずっているかのように重かった。

 夜、風が出てきた。風は時折激しく窓を叩いた。ぼんやりと考えているうちに、いつしか山下のことを考えていた。これからどうするのだろうが。立ち直れるだろうか。これといって技能がないことは知っていた。厳しい雇用情勢の中で、就職先を見つけるのは難しいだろうとも思った。乳飲み子を抱えてどうするのだろうか? そう思うと涙が流れてきた。もう一度雇おうかとも考えてみた。が、できるはずはないことはすぐに分かった。いつも資金繰りで青色吐息の会社に、仕事も満足にできない人間を抱え込むほど余裕があるはずはないのである。いつしか風は止んでいた。涙も涸れていた。夜の深い静寂の中があたりを包んでいる。彼はこのまま死んだらどんなに楽かと思った。ふと、そのとき、五年前に死んだ父の顔が蘇った。無口であった父との交流と呼べるものはなかったけれど、『生きることは楽なことじゃない。けれど、苦しくとも前に向かって生きる。それが人生だ』と言ったことを思い出し、涙が再び流れてきた。

翌日、山下本人から電話がかかってきた。
「昨日はすみませんでした。病院の検査がありました」
 大木は何も言えなかった。
「父から聞きました。失礼なことを言ったみたいで。会社が苦しいのに、退職金が随分と多いなと思いました。とても感謝しています」
 山下は泣いていた。
「気にするな」
「社長、感謝しています。何もできないことも分かっているけど、これからのことを考えると、残りたかった。病気になった自分に何の取り柄もないんだと言われたみたいでショックです」
「そんなつもりはない」
「分かっています」
 山下の沈黙は長がった。
「分かりました。これで終わりですね。長い間、お世話になりました」
大木が「うん」と応え、さらに何かを言おうとしたら電話が切れた。十年の関係があっけなく終わった。大木はやるせなさがこみあげてくるのを抑えることができなかった。
作品名:会社を辞めてくれ 作家名:楡井英夫