愛が望む遠い約束
オープニング
初めてその知らせを聞いたとき、何かたちの悪い冗談を聞かされているのか、あるいは悪い夢でも見ているような感覚に襲われた。
――拓真(たくま)が、交通事故で意識不明。
ぽつぽつと、雨が降り始めた。
私は吐き気と目まいに耐えながら近くのタクシー乗り場に行き、運転手に病院まで急ぐよう、息を切らしながらまくしたてる。
運転手は「何かあったんですか?」と、まるで人ごと――実際人ごとなのだが――のように訊いてきた。
「いいから早く出して!」
私はいらいらしながらせっついて、今度は飯嶋(いいじま)君の携帯に電話する。
雨がまるでテンポよくゆっくりと激しくなるなか、運転手は舌打ちしながら車を歩くような速さで走らせ始めた。それが私の神経に障る。
「悪い、出るのが遅れた」
病院の中では携帯電話は使用禁止なので、飯嶋君は長いコール音のあとに出た。
電話のむこうからも雨の音が聞こえる。
「今タクシーでそっちにむかってるんだけど、拓真君……本当なの!?」
私の叫びに対し、携帯からは雨の音以外何も聞こえなかった。飯嶋君の、現実を私に差し出したくないという気持ちが、手に取るように分かってしまう。そんなもの、分かりたくないのに。
「……本当、だよ」と、飯嶋君はようやく、小さくて震えるような声で答えた。その短い答えには、未だに認めたくない事実だよ、という気持ちが見え隠れしているように感じられる。
「そんな、どうして!」
「子供をかばったんだ。拓真らしいと言えば、拓真らしい。
子供が道路に転がっていったボールを追いかけて……車に轢かれそうになったのを、あいつが助けた」
拓真君はサッカー部でディフェンスをしていた。そこで培ったバネが、こんな形で彼の人生を奪うなんて。
うぅん。たぶん、その考え方は違う。例え拓真君の運動能力が低くても、彼は子供をかばうだろう。
「でも、こんなことって……こんなことってないじゃない!」
私の叫び声が車内の空気を振るわせた。同時に電話先の世界も、一瞬歪んだような気がする。
「それが拓真なんだ。その少年とご両親は、あいつに謝罪と感謝を……」
「感謝なんていらないわよ! 返してよ! 拓真君と私の約束を!」私は飯嶋君が言い終える前に、憎しみにまみれた毒を怒涛のように吐き出した。
「……とにかく、病院でみんな待ってる」
そこで電話が切れた。
「悩める悲劇のヒロインごっこか。いいねぇ、青春だねぇ」
運転手のその言葉に私は「ふざけるな!」と、子供と両親に向ける怒りを運転手に先にぶつけた。
運転手は大きく舌打ちする。その瞬間、雨が急激に激しくなった。
病院に到着すると、私は病室に直行した。
手術は無事終了して命に別状はないという。だが拓真君の意識は未だに戻らないと、担当医が彼のご両親と飯嶋君、そしてシィちゃんに説明していた。
「……申し訳ありませんでした! 本当に、申し訳ありませんでした!」
「でも、この子の命が助かりました……」
拓真君がかばった少年の両親が、みんなにひたすら頭を下げている。
拓真君のお母さんは涙を流しながらも「そんなに、自分達を責めないでください」と、寛大でいる。お父さんも「拓真が身をていして守った命、無駄にしないでくれ」と、少年に言っていた。
何で? 拓真君と私の約束を引き換えに守った命? そんな命、私には何の価値もない。
なぜみんな、そんなに謝罪と感謝の意を受け入れられるのか、私は不思議に思う。と同時に、私の中でありったけの憎悪が渦まく。
「何でよ! だからって拓真君が……拓真君が!」
泣き叫ぶのは私一人だけだった。拓真君の親友である飯嶋君と、彼に想いを馳せていたシィちゃんは、悲しみを押し殺しきれていないが、それでも誰かを呪うということをしない。
「拓真君の人生が死ななきゃいけないのよ! ふざけないでっ!」
ありったけの声で、少年とその両親に怒りをぶつける。
分かってる。この時の私は分かっていた。ただ、それを認めたくなかった。
拓真君は、初めて会ったときからそうだった。どこか『死』というものを普段から受け入れているような人だと。いずれ人間は死ぬ。それは早いか遅いかの違いだけだという絶対の法則を普段から受け入れている人だ。
だから困っている人を見つけると、後先考えずに行動する。自分の努力で遅くなると信じて。それが彼の本能だと言わんばかりに。そして彼はいつも損をしながら笑っている。
でも、だから何だって言うの? 少年が道路に飛び出さなければ、そして車を運転していた男が彼を数キロメートル引きずってそのまま逃走していなければ、こんな現実は在りえなかったんだ。
「どうして、どうしてみんなそうしていられるの!? この家族は拓真君の人生を奪ったのよ。拓真君と私の約束を犠牲に幸せになろうとしてるのよ! 飯嶋君! あなた、拓真君の親友でしょ、小学生の頃から! シィちゃんは拓真君のこと今でも好きなんだよねぇ! なのに、何でそうしていられるのよ! 何で誰も憎もうとしないの……ふざけるなっ、この人殺し!」
分かってる。本当は私だけじゃないということは。それでも私は叫ばずにはいられなかった。
「一緒に、同じ大学に行きたいね」
彼との約束は叶わぬものとなってしまった。
第一部『出会い』
僕が彼女を知ったのは、高三の夏、部活を引退したその日の予備校でだった。
彼女の名前は千石(せんごく)清美(きよみ)。
名前通り、彼女は凛としていてだけどお淑やかで、美しかった。
気取らない自然な笑顔と立ち居振る舞い。
夏服からは、細い撫で肩と全身の柔らかな輪郭がありありと浮かんでいた。
そして肩にかかるかかからないかくらいの黒いショートヘアは、着飾っていないストレートで良く似合っている。
眉毛や目の形はまるで細い筆に染み込んだ墨汁で描かれたように繊細で、完璧だった。
化粧っ気を必要としない美しさは、もはや芸術と言ってもいい。
そのため、他の予備校生の何人かは、彼女に視線を止め、そして留めている。
ただひとこと。――美しい、と。そう言わんばかりの視線を向けていた。
初めて彼女を認識したその頃の僕は、昔別れた憧れの幼馴染みの幻想に囚われながら、好きな友達がいるくせに、それでも清美にイカレテいった。
こんなに美しい人を見たのは、それが初めてだったのだ。
***
「バス、あと何分だ?」
昔からの付き合いの悪友〝真司(しんじ)〟が、二本のコーヒーを持ってバス停に来た。
あたりはうす暗くなっていて、田舎町に続くこんなバス停の利用者は、もう僕と真司の二人だけだった。
僕は真司が投げてよこしたコーヒーをキャッチし「約十分くらいだな」と答えた。
「そうか。最後の部活、どうだった?」
「三年生対一・二年連合軍の試合、すげぇ楽しかった。
真司の方はどうなんだ? 後輩の女子からラブレター、どうせまた貰ったんだろ? 小学校のときも、中学んときも、いつもそうだよな。羨ましいぜ」
初めてその知らせを聞いたとき、何かたちの悪い冗談を聞かされているのか、あるいは悪い夢でも見ているような感覚に襲われた。
――拓真(たくま)が、交通事故で意識不明。
ぽつぽつと、雨が降り始めた。
私は吐き気と目まいに耐えながら近くのタクシー乗り場に行き、運転手に病院まで急ぐよう、息を切らしながらまくしたてる。
運転手は「何かあったんですか?」と、まるで人ごと――実際人ごとなのだが――のように訊いてきた。
「いいから早く出して!」
私はいらいらしながらせっついて、今度は飯嶋(いいじま)君の携帯に電話する。
雨がまるでテンポよくゆっくりと激しくなるなか、運転手は舌打ちしながら車を歩くような速さで走らせ始めた。それが私の神経に障る。
「悪い、出るのが遅れた」
病院の中では携帯電話は使用禁止なので、飯嶋君は長いコール音のあとに出た。
電話のむこうからも雨の音が聞こえる。
「今タクシーでそっちにむかってるんだけど、拓真君……本当なの!?」
私の叫びに対し、携帯からは雨の音以外何も聞こえなかった。飯嶋君の、現実を私に差し出したくないという気持ちが、手に取るように分かってしまう。そんなもの、分かりたくないのに。
「……本当、だよ」と、飯嶋君はようやく、小さくて震えるような声で答えた。その短い答えには、未だに認めたくない事実だよ、という気持ちが見え隠れしているように感じられる。
「そんな、どうして!」
「子供をかばったんだ。拓真らしいと言えば、拓真らしい。
子供が道路に転がっていったボールを追いかけて……車に轢かれそうになったのを、あいつが助けた」
拓真君はサッカー部でディフェンスをしていた。そこで培ったバネが、こんな形で彼の人生を奪うなんて。
うぅん。たぶん、その考え方は違う。例え拓真君の運動能力が低くても、彼は子供をかばうだろう。
「でも、こんなことって……こんなことってないじゃない!」
私の叫び声が車内の空気を振るわせた。同時に電話先の世界も、一瞬歪んだような気がする。
「それが拓真なんだ。その少年とご両親は、あいつに謝罪と感謝を……」
「感謝なんていらないわよ! 返してよ! 拓真君と私の約束を!」私は飯嶋君が言い終える前に、憎しみにまみれた毒を怒涛のように吐き出した。
「……とにかく、病院でみんな待ってる」
そこで電話が切れた。
「悩める悲劇のヒロインごっこか。いいねぇ、青春だねぇ」
運転手のその言葉に私は「ふざけるな!」と、子供と両親に向ける怒りを運転手に先にぶつけた。
運転手は大きく舌打ちする。その瞬間、雨が急激に激しくなった。
病院に到着すると、私は病室に直行した。
手術は無事終了して命に別状はないという。だが拓真君の意識は未だに戻らないと、担当医が彼のご両親と飯嶋君、そしてシィちゃんに説明していた。
「……申し訳ありませんでした! 本当に、申し訳ありませんでした!」
「でも、この子の命が助かりました……」
拓真君がかばった少年の両親が、みんなにひたすら頭を下げている。
拓真君のお母さんは涙を流しながらも「そんなに、自分達を責めないでください」と、寛大でいる。お父さんも「拓真が身をていして守った命、無駄にしないでくれ」と、少年に言っていた。
何で? 拓真君と私の約束を引き換えに守った命? そんな命、私には何の価値もない。
なぜみんな、そんなに謝罪と感謝の意を受け入れられるのか、私は不思議に思う。と同時に、私の中でありったけの憎悪が渦まく。
「何でよ! だからって拓真君が……拓真君が!」
泣き叫ぶのは私一人だけだった。拓真君の親友である飯嶋君と、彼に想いを馳せていたシィちゃんは、悲しみを押し殺しきれていないが、それでも誰かを呪うということをしない。
「拓真君の人生が死ななきゃいけないのよ! ふざけないでっ!」
ありったけの声で、少年とその両親に怒りをぶつける。
分かってる。この時の私は分かっていた。ただ、それを認めたくなかった。
拓真君は、初めて会ったときからそうだった。どこか『死』というものを普段から受け入れているような人だと。いずれ人間は死ぬ。それは早いか遅いかの違いだけだという絶対の法則を普段から受け入れている人だ。
だから困っている人を見つけると、後先考えずに行動する。自分の努力で遅くなると信じて。それが彼の本能だと言わんばかりに。そして彼はいつも損をしながら笑っている。
でも、だから何だって言うの? 少年が道路に飛び出さなければ、そして車を運転していた男が彼を数キロメートル引きずってそのまま逃走していなければ、こんな現実は在りえなかったんだ。
「どうして、どうしてみんなそうしていられるの!? この家族は拓真君の人生を奪ったのよ。拓真君と私の約束を犠牲に幸せになろうとしてるのよ! 飯嶋君! あなた、拓真君の親友でしょ、小学生の頃から! シィちゃんは拓真君のこと今でも好きなんだよねぇ! なのに、何でそうしていられるのよ! 何で誰も憎もうとしないの……ふざけるなっ、この人殺し!」
分かってる。本当は私だけじゃないということは。それでも私は叫ばずにはいられなかった。
「一緒に、同じ大学に行きたいね」
彼との約束は叶わぬものとなってしまった。
第一部『出会い』
僕が彼女を知ったのは、高三の夏、部活を引退したその日の予備校でだった。
彼女の名前は千石(せんごく)清美(きよみ)。
名前通り、彼女は凛としていてだけどお淑やかで、美しかった。
気取らない自然な笑顔と立ち居振る舞い。
夏服からは、細い撫で肩と全身の柔らかな輪郭がありありと浮かんでいた。
そして肩にかかるかかからないかくらいの黒いショートヘアは、着飾っていないストレートで良く似合っている。
眉毛や目の形はまるで細い筆に染み込んだ墨汁で描かれたように繊細で、完璧だった。
化粧っ気を必要としない美しさは、もはや芸術と言ってもいい。
そのため、他の予備校生の何人かは、彼女に視線を止め、そして留めている。
ただひとこと。――美しい、と。そう言わんばかりの視線を向けていた。
初めて彼女を認識したその頃の僕は、昔別れた憧れの幼馴染みの幻想に囚われながら、好きな友達がいるくせに、それでも清美にイカレテいった。
こんなに美しい人を見たのは、それが初めてだったのだ。
***
「バス、あと何分だ?」
昔からの付き合いの悪友〝真司(しんじ)〟が、二本のコーヒーを持ってバス停に来た。
あたりはうす暗くなっていて、田舎町に続くこんなバス停の利用者は、もう僕と真司の二人だけだった。
僕は真司が投げてよこしたコーヒーをキャッチし「約十分くらいだな」と答えた。
「そうか。最後の部活、どうだった?」
「三年生対一・二年連合軍の試合、すげぇ楽しかった。
真司の方はどうなんだ? 後輩の女子からラブレター、どうせまた貰ったんだろ? 小学校のときも、中学んときも、いつもそうだよな。羨ましいぜ」