リバイバル
一九八二年八月二四日、政治と経済の中心地であり、中世の面影を色濃く映すスイスの首都ベルンで、資産家のアーノ家に待望の子宝が誕生した。アーノ家は過去の栄光とはまったく無縁の、資本の蓄積をここ数十年によってのみ得ているだけの、フレイス・アーノが一代で築き上げた伝統なき名家である。
アルディスと名づけられたその子は父クラウスと母リアーネの愛情のもと、すくすくと育っていった。それは二人にとって生涯で一番幸せな月日でもあった。
一九八七年五月中旬、クラウスたち親子は五人の親族と共に、グルテン山へ行き、楽しい一日を送っていた。
日差しはそれほど強くもなく、風もほどんど吹いてはいなかった。草原のように見える斜面の向こうには、弧を成す緑の丘が見渡せた。そのうえ遥か彼方へ続いている淡碧の空を背景にくっきりとその姿をさらしている。
そんな一日も終わろうかという最中だった。グルテン山の麓道で、帰路につこうとしていた一行に突然悲劇が舞い降りた。
その木立ちをも揺るがさんばかりの大きな悲鳴によって、トレッキングの疲れからクラウスの背中で眠っていたアルディスが目を覚ました。それは彼にとって、一生忘れることができないほどの恐ろしくも信じられない光景だった。
悲鳴は母リアーネのものだったからだ。木陰から現れた大きな熊が猪突猛進で母を突き飛ばして一本の高木に叩きつける。次いで気絶しているリアーネに勢いよく咬みつき、草木をもその鮮血で塗り替えたのだ。
クラウスは息子を地面に下ろすと、リュックサックからストライダー社のフォールディング・ナイフを取り出し、走り出す。
「リアーネ ーッ!」
彼がナイフを背中に突き刺すと、熊はこの世のものとは思えないほどの呻きを上げ、怒り狂ったような形相で振り向こうとする。が、クラウスはさっとナイフを引き抜き身構えた。彼の表情に臆するところは一片もなく、ただ妻を助けたい、その気持ちだけで動いていた。
アルディスは熊の血走った目と、母の血で染まった赤い歯に怯えるしかなく、声を出すことすらできなかった。
クラウスはまた先手をとろうとしたが、熊の方が一瞬速く、鋭利な爪が袈裟懸けに彼の体を切り裂く。頽れる体からは鮮血が迸り、熊はその返り血を浴び、さらに狂気の色を濃くしていった。
「リア……」
倒れている妻を見つめ名を呼ぼうとするが、クラウスはそれ以上言えなかった。熊は止めとばかりに気管と頸動脈に咬みつき彼から声を奪ってゆく。次に気力の費えた体におびただしいほどの流血を強いては、広がる血の海の中、クラウスの命を終わらせたのだ。
それを目の当たりにした五人の親族は、まだ五歳にも満たないアルディスを一人残し、その場をあとにした。
残されたアルディスはひたすら目の前で両親が熊に殺されるところを見つめることしかできなかった。落涙しつつも、勇気を奮い起こし、どうにか立ち上がろうとする。
そんなアルディスを目にした熊は走り出した。が、熊は彼に達する手前で怯んだ。しかも身の毛のよだつような悲鳴を上げ苦しんでいる。熊の首筋には一匹の真っ白な狼が咬みついていた。そのあとを追うように狐色の狼の群れが次々と熊に咬みつく。そのため熊は号泣しながら体を激しく動かし必死の形相を見せ始める。アルディスはその間に尻餅をついたまま、ゆっくり後退した。まだ体が震え涙が止まらない。
一匹の狼が呻き、熊から離れた。ほかの狼たちもそれに倣った。今までの荒々しい光景が嘘のように静まり返り、しばらく時間が流れる。すると熊が苦痛の声を漏らし、その場をあとにした。
狼の群れがアルディスを救ってくれた。だが、今の彼には血に染まって倒れている両親の姿しか見えない。
まず自分から距離の近いクラウスのもとへ駆け寄り「父さん、父さん」と、さらに落涙しながらその体を何度も何度も揺すってみる。が、父は動かない。
だからその死を悟ったのだ。
右手に目を向けると、倒れている母の顔が飛び込んで来た。が、駆け寄ることができず、ゆっくり近づいて行く。父は死んでいた。その現実がアルディスを怯えさせたのだ。それでも母のもとへ寄り添い、その体に父の血がついた手でそっと触れてみる。しかし母も動かなかった。何より〝母さん〟というその一言が言えなかった。どうしてもそれを言うことができなかった。