ドールガール
1
くるぶしのほうにある、あの出っ張った丸い骨とその下にある骨の丁度境目の真ん中あたりって、一体なんて言う名前なんだろう。
外回りの飛び込み営業の日は、午後の三時をすぎると、決まってその場所から、ティッシュに落とした水滴が染みを作るように、じんわりと痛みだす。
重たいため息を吐き出しながら、三ツ木美保は三キロあるノートパソコンと数十ページのカタログが十三冊も入ったトートバックの紐が締め付けている肩の位置を数ミリ内側へずらした。
観光スポットとなった洋館が立ち並ぶ細い道をふらふらと気の向くまま歩いて行き、港が見える公園へ。
日常に続く道がふと気づくと別の国へ続いているような感覚が大好きで学生の頃から何度も訪れていた場所だ。今でも、近くの店舗へ外回りの営業に出る日は用事が無くても立ち寄るようにしていた。
それにしても、夕暮れ時の公園は自分とそれ程年の離れていないであろうカップルたちのデートスポットになっていて、濃紺色の冴えないスーツ姿で、剥がれ落ちそうな化粧とくたくたの身体を引きずっているシングル女子にはあまり楽しい場所ではない。
虚しい……。
そんな感傷を美保はため息とともに吐き出し、気を取り直して腕時計を確認する。
長針は待ち合わせより十分ほど前を示していた。
「ええと、確かこの辺……」
同じ外回りで車を使っている会社の人間がピックアップしてくれることになっている。
本当は面倒でも電車を一時間近く乗り継いで本社に帰る方が
気楽ではあるのだが交通費節約のため相乗りというお達しが出ているので仕方がないのだ。
海から流れてくる潮風が束ねていない髪を跳ねさせて視界を遮るので、ごく自然に風上側に身体の向きを変えた。
その時だ。
そんな景色の中に、ふと、違和感を感じた。
人形が、いる。
公園の入り口と、港が見える端の丁度、真ん中くらいの広場のほうだ。
巨大な--等身大の、西洋人形。
人形は、三十センチほどの高さの丸い透明な台の上に、地球の重力が届かない距離に浮いているかのように、ふわり、と立っていた。
いや、それは『立っていた」というより、舞い降りたとでも表現したほうがしっくりくる気がする。
つばの広いアイボリーの帽子にはピンクのリボンが頭の後ろで可愛らしく蝶結びになっていて、余りの布の端は鎖骨まで届いていた。
シフォンケーキみたいに甘そうに膨らんだパステルピンクのレースが何十にも重ねられたスカート。
栗色の巻き毛に青い瞳。頬に丸いオレンジ色のチークと、ベビーピンクの唇。
人形は無表情のまま少し首をかしげて斜め下方向をじっと見つめ、今にも一歩を歩き出しそうなポーズをとっていた。
なんてきれいなんだろう。
美保はその美しさに引き寄せられるように彼女の真正面へ歩いてきた。
近付いて見つめると、白い肌はつるりとしていてシミひとつなく、唇のグロスも塗れるような艶があり、伏し目がちの瞳の上には睫の陰が落ちている。
なんでこんなところにこんなものがあるのだろう。
と思ったとき、美保の足先がコツ、と何かを蹴り付けた。
足下にあったのは、十数枚の小銭と、数枚の札が入った銀のトレイ。
そこで美保はようやく気づいた。
この『人形』、パントマイムなんだ。
美保は好奇心が押さえきれず、財布から五百円玉を抜き取り、トレイの上にことんとおいた。
そうすると、ゆっくりゆっくり人形が動きだす。
サビがネジが歯車を回しているみたいに、カクカクとコマ送りの動きで、身体を動かし、人形はスカートの端を指でつまんでちょこんとひとつお辞儀をする。
そうして、オルゴールの台の上のオブジェみたいにゆっくりと回転をしはじめた。
回転をしながら徐々に上半身を起こし、人形は踊り始める。目の前にまるで相手役の王子様がいるように手を組んで、ゆらりゆらりと身体を左右に揺らせて。
そうして二周ほど動きしたところで、人形はまた先ほどと同じ姿勢でぴたりと静止した。
おそらくたっぷり五秒は口をぽかんとあけて。
美保は思わず手をたたく。
「すごいすごいすごーいっ」
美保の声に、周囲にいた人が何人か振り返って視線を送る。
休日はこういう人形のように動かないパフォーマンスをしている人は何回か見たことがあるが、美保は男性しか知らなかった。
目の前の彼女は、どうみても、二十歳にプラスマイナス三つくらいの年齢の女の子。それに、化粧はしているとはいえ、これほど整った顔立ちをしている綺麗な少女を見るのはもちろん初めてだった。
「ちょっと、三ツ木さんっ、そんなところで油売ってないで、こっちは車で路駐とか出来ないんだから」
何時姿を現したのか、柵ぎりぎりに車体を寄せた待ち合わせの相手が窓から大声を張り上げる。
「すみません!」
慌てて美保は走り寄った。
四十手前のその大先輩は、入社当初から営業畑にどっぷりつかっている女性だった。
良い意味でも悪い意味でも仕事中毒で、アポの電話を無言で切る客先に何度も通いつめて交渉したり、足元を見られていると思えるような契約条件でも、上司が根負けするほど拝み倒して許諾を勝ち取ったりと、男勝りな武勇伝は枚挙にいとまがない。
派手めの顔立ちは美人な方の部類にはいるのだろうけど、色白に見せるためかツートーンほど明るいファンデーションが分厚く顔を覆っているのと、ひょろっとした体躯を安っぽい作りのリクルートスーツが覆っているせいで年齢より若く見えるが、十代の少女が無理矢理下手な化粧と大人びた服で着飾っているのと似たような不自然感が滲み出ていて、今年アラサー女子の仲間入りをしてしまう美保は近くにいるとなんだか居た堪れない気持ちになるのだ。
「何を見てたの?」
「パントマイム、を」
「ふーん」
興味を惹かない単語だったのだろう。相手からはどうでもいいような相槌だけが返ってくる。
「で、どうだったの」
美保は思わず「えっ?」と訊き返した。
まさかパントマイムのことを詳細に訊ねた訳ではないだろうということだけは確信できたものの、質問の目的が理解できなかった。
「営業よ。飛び込みしてきたんでしょ。その結果」
「あっ……はい。ええっと、二十五件まわって、カタログをお渡しできたのは二十三件でした」
「で、脈ありそうなとこはあったの」
アンテナショップやオンラインストア、サロンやドラッグストアなどを対象に、会社で輸入しているサプリメントやオーガニックのコスメ、雑貨を販売しているのが、美保たちの会社だ。
雑誌やテレビで紹介された直後の過熱的なブームが予想より早く過ぎ去ってしまい、過剰ぎみの在庫を販路拡大のために効率よく使おうと、これまでターゲットにしてこなかった近場の店で絨毯爆撃的に飛び込み営業を行っている。
「二件ほど好印象でした。担当の方の名刺を頂いたので、後日また、サンプルを持って伺おうと思ってます」
こうした一連の営業ノウハウは先輩から教えられたものだ。
「まあ、そんなものねぇ。今のご時世、どこもかしこも不景気だし」
不景気のせいにはしているものの、自分の営業スキルの低さを暗に指摘されている気がして、美保は曖昧に頷いて押し黙った。