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良心の呵責

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『良心の呵責』

 あれは小学生の頃の話だ。
 欲しくて、欲しくてたまらない(テレビの漫画の主人公)キャラクターのシールがあった。けれど、家が貧しかったから、それを口に出して母親にねだることはできなかった。今考えると、はした金で買えるものであったかもしれないが。

 シールは知恵の遅れた娘が番をする店にあった。
 彼女が店番をしているときを狙って、近所の悪ガキどもは何かしらくすねた。もっとも、店は雑貨屋で高額な商品は何一つなかったし、また常に彼女が店番をしているわけでもなかった。
 自分は近所の悪ガキどもに誘われても、そんなことを一度もしたことはなかった。見つかって母に心配をかけるのが嫌だったから。が、同時に何度も誘惑にかられたことも事実だ。
 彼女は実に鈍臭かった。そんな彼女の目をごまかすのは子供でも容易いことだった。その店に足を運ぶ度にもう一人の自分が何度も囁いた。『みんなやっているぞ!』と。その度に心が激しく揺れ動いた。
 「絶対に見つからないよ。あいつは知恵遅れだから」と仲良しの友達は平然と言った。 絶対に見つからない! その一言が、どれほど自分を惑わしたことか。

 ある日、七歳年上の兄に言いつけられて、その店に買い物に行った。客は誰もいなかった。ちょうど彼女が店番をしていた。欲しいシールが目の前にあった。彼女が品物を取りに店の奥に行った。
 「誰もいないぞ。今だ!」ともう一人の自分に囁かれた。このチャンスを逃しては二度とないと思ったとき、ポケットの中に入れてしまった。汗が滝のように流れていた。戻そうかとも思った。店の奥にいた娘の足音が聞こえてきた。それは高鳴る自分の胸の鼓動のような気もした。
「欲しいんだろ、欲しくて、欲しくて、たまらないんだろ? だったら、戻すことなんかないんだよ。この店は主人はお金持ちだから、ちっとも困らないさ。それに見つからなければいいんだよ」
 見つかっていない! 誰にも見つからない。知っているのは自分だけ。そして、神様と。けれど、成功したという思いよりも、悪いことをしてしまった思いが少しずつ強まってきた。『みんなやっている。自分は一度だけだ。もう二度と盗みはしない。母も悲しまない。誰も知らない』と自分に言い聞かせた。
 店番の娘は「ありがとうね」ととてもいい笑顔で品物と釣り銭を渡してくれた。その笑顔を見たとき、自分に笑えんでくれるいい人の足を踏みつけてしまったということを悟った。
 もう一度、「ありがとうね」と彼女は言った。顔をそむけ、直ぐに店を出た。欲しいものが手に入ったと思いよりも悪いことをしてしまったという悔悟の念の方が強くなった。

 帰る途中、先生が言った言葉を思い出した。「何かするとき、胸に手を当て、君は正しいか? と考えれば、そんなに過ちはおかさない」という言葉を。「いつだって悪魔は甘い言葉でささやくんだ。その甘い言葉につられてはいけない」
 悪魔のささやきに釣られてしまった。それだけでも充分苦しかったのに、それだけですまなかった、

 家に帰ると、兄が出かけようというのか、玄関にいた。すぐに兄に頼まれたものを渡した。その時、偶然にも盗んだシールが落ちてしまい、見つかってしまった。
「それはどうした?」と聞いた。
 兄を見た。まるで地獄の閻魔様のような怖い顔をして見降ろした。
 何も答えられなかった。
 再び、兄が「それはどうした?」と聞いた。
 冷や汗が滝のように流れてきた。ただ沈黙するしかなかった。そのときの時間が長さ! 
 殴られても蹴飛ばされても文句を言えないと思った。むしろそうして欲しかった。自分がやったことが実に愚かであり、間違ったことを知らしめるために。が、兄は、沈黙で全てを理解したのであろう。それ以上、何も言わなかった。
 悪いことをした。母を困らせることをした。兄が告げ口をしたらどうしょう! そう思ったとき、再び、店に行った。彼女がいないときに狙って、そっと置いて来た。彼女は客がいないと、いつも奥の部屋でテレビを見ていた。泥棒さん、いらっしゃいといっているようなものだった。

 盗んだものを返しても、心の苦さは消えなかった。手を汚してしまった。その事実は永遠に消えないと思った。できるなら、時間を戻し、白紙に戻したかった。

 今、考えると、あのときの経験は良かった気がする。何か一線を越えようとするとき、あの時の心の苦しさや後ろめたさを思い出すことができるから。
作品名:良心の呵責 作家名:楡井英夫