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届かない星と

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 元の塗装が劣化してところどころ錆びた鉄の扉。ドアスコープさえない、鉄板のような印象のそれの、おまけのように付いたドアノブに鍵を差し込んだ。ガチャガチャと大げさに音を立てて錠が開き、ノブを回して引けば見た目よりも軽い手応えで扉が開いた。
 六畳一間の部屋だった。正面の壁、低い位置に二面の窓があって、日の沈んだ空と遠景に街の明かりを映していた。その下に脚が折り畳み式の横長の小さな机。部屋の左手前に古びたシンクと使われていないコンロ。その奥に年期の入った木製の和箪笥と洋箪笥が並んでいる。床はもともと畳だった物をフローリングに張り替えたそれで、その上に薄っぺらいラグが敷かれている。入り口には靴箱すらない狭苦しい玄関があって、その右手に扉があり、その向こうは今時珍しい和式トイレになっていた。
 男は鍵を背広の内ポケットに突っ込み、玄関で乱雑に革靴を脱いだ。後ろ手に扉を閉めて錠をかけて、大股に部屋を進み机の前に腰を降ろして胡座をかいた。
 左手に引っ提げていたコンビニ袋を机の上に置き、中から缶ビールを一本取り出す。片手でプルタブを起こしながら、もう片方でネクタイを緩めた。引き抜くように取り去って、次いで背広も脱いでしまう。纏めて箪笥の方に放り投げた。箪笥にぶつかってくしゃくしゃに広がって落ちた。
 男はそれに視線をちらと向け溜息を一つ吐いた。目を伏せて、重い身体を持ち上げるようにゆっくりと膝を立てて立ち上がった。歩み寄って襟の部分を引っ掴んで持ち上げ、軽く二、三回叩いた。洋箪笥の扉を開ける。扉の内側に付けられた鏡に、目の下にクマを作った疲れた顔が映った。
 反射的に目を逸らして箪笥の中に視線を移した。もう随分糊の取れてしまったワイシャツが数枚と、今着ているものよりも少し生地の厚い背広が一式。それから礼服用の黒背広が並んでかかっている。
 空いているハンガーを取って、背広をかけた。次いで足下のネクタイも拾って背広の肩に引っかけておく。
 扉を閉めて机の前に戻り腰を降ろす。プルタブを戻してビールを呷った。炭酸が喉を焼いて通り爽快感を呼び起こした。舌に残った馴染みの苦みが心地良い。
 一旦缶を置いて机に片手を付き、軽く腰を浮かして反対の手を伸ばして窓を開ける。立て付けの悪い金属の窓枠は何度もつっかえりながら開いた。風が室内に流れ込む。微かに汗ばんだ肌を撫でるように通るそれに目を細めて、短い髪を掻き上げた。気持ち良い風だ。
 男は両手を机に付いて窓の外を眺めた。高台の二階にあるここからの眺めは部屋の作りほど悪いものではない。夜を迎えたばかりの空は淡くグラデーションを描いて上に上に色を重ね、その上で少ないながらも小さな輝きで星が瞬いていた。月は満月に少し足りなかったが、それでも風情を感じるには十分なほど。むしろ薄くかかった雲と併せてより風情があるように感じられた。
 自然と息を吐いていた。両肩から力が抜けていく。嗚呼、この光景だけは写真でも絵画でも見られない。生きた光景を収められるのはこのありふれた銀枠だけだ。
 視線を降ろせば遠くに高層ビルが立ち並ぶ一角。窓から溢れた照明の光で輪郭を浮き上がらせたその姿はまるで光の塔が群れているかのようだった。あの辺りはいわゆる都会に分類されるところで、この時間でもまだ大勢の人が活動しているのだ。それはそれはせわしなく。
「ご苦労なことだよ……」
 思わず呟いた声に羨望と嘲笑が混じった。大きく一つ息を吐き、腰を下ろした。残っていたビールを一息に呷ってみる。一度目の爽快感はもはやなく、ただ喉を潤しただけの液体。
 男は舌打ちを一つ。底を叩きつけるように缶を置いた。今度は睨みつけるように塔の群れを見やった。星の輝きを飲み込まんとばかりに光を纏って空に伸びている。辺りが暗くなればなるほどに際だつその姿。
 あの高い所にいる連中からは、いったい何が見えているのだろうか。あんなにも強い光の中で空はどう見えるんだろうか。星は見えているのだろうか。あそこからは……。
 空に手を伸ばしかけて、ふと笑みを浮かべた。喉の奥からこみ上げてきた感情は意外にもすっきりとしていた。そうだ、なんてことはないじゃないか。ここにいてもあそこにいても、どのみち星に届きはしない。所詮、下から見た差でしかない。星から見ればここもあそこも大して差はないに違いない。――どうせ『額縁』の向こうの世界だ。
 中途半端に伸ばした手を引いて、男はそっと目を閉じた。目蓋の裏、銀枠の内側で星が瞬いた気がした。
作品名:届かない星と 作家名:庭床