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海に行こう

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『海に行こう』

 
どうしてこんな惨めな人生を送っているのか。香奈子には分からなかった。何か大きな罪を犯したというのだろうか。それとも人として成すべきことをしていないというのだろうか。どんなに考えても分からない。
 女学生の頃、清楚な美しさに包まれ、美人コンテストにも選ばれた。今では、その頃の美しさが失われ、鏡を見るのさえ億劫だ。まだ二十八になったばかりというのに。

 彼女の不幸の始まりは、夫が若い愛人をつくったときには始まった。愛人ケイは彼女より十歳も若い。そのうえ、天使のように美しい。ときに悪魔は天使の仮面をつける。夫はケイに出会った瞬間から虜になった。まるで悪魔に魅入られたように。最初は単なる浮気だと思った。やがて飽きるだろう。そんな気持ちで香奈子は夫の心変わりを待った。二人の間には、天使のようにかわいい小さな娘がいる。子はかすがいというではないか。二人の関係にひびが入るはずはないと信じた。だが、時が経つにつれ、夫はますます愛人にのめり込んでいった。とうとう家に帰らなくなった。香奈子は何度泣顔で神に祈りを捧げた。しかし、祈りの言葉はちっとも通じなったばかりか、夫はとうとう生活費さえ入れなくなり、離婚しようとまで言い出した。
「あなたは私達に死ねというのですか?」
「この豊かな日本だ。どうにでも生きられるさ」
 冗談のように軽く言う。どこまで本心なのかよく分からない。
 香奈子は親の反対を押し切り結婚した。それゆえ、親の援助を受けることはできない。この大都会東京で幼子を背負い一人で生活しろ、ということは死の宣告に等しかった。お嬢様の短期大学を出た彼女にこれといった技能はなかった。ピアノもうまい。花だって活けることはできる。英会話だって少しはできる。けれでも、どれも素人よりはうまい程度で、とてもプロとしてやっていけるものではない。

 離婚という言葉を夫から聞いたときから、職を探してみた。しかし現実は厳しい。二十八歳でこぶつきの女にはろくな仕事がない。そのうえ、「なぜ仕事を探しているんですか?」とか「旦那さんとうまくいっていなんですか?」とか仕事と関係のないことまで聞かれる。毎日が重い砂袋を引きずっているようで、体も心も重い。

 思い余って、香奈子は愛人のケイにところへ行った。ドアを開けた愛人を見て、香奈子は驚いた。子娘ように劣らぬほどみずみずしい。そのうえ圧倒的に美しい。香奈子は現実を忘れ後ずさりしてしまいそうになったが、気を取り直して、
「夫を返してほしい」と頼んだ。
愛人は平然と「彼の運命は彼自身で決めることよ」と言った。
まるで聞き分けのない駄々っ子を諭すように言い方である。
「よく聞いて、お嬢さん。彼は私と結婚しているのよ。今の大学生の知能がいかに落ちたといえ、それが何を意味しているか分かるでしょう?」と怒った。
「分かります、おばさん。だから、そんなに怒鳴らないで」
「私も冷静になりたいの。でも、あなたのせいで、それが出来ないの!」
「実をいうと、私も彼と別れたいの。飽きたのかも? それに最近はセックスしていない」と笑みを浮かべた。
 おお!神よ、許したまえ、と思わず香奈子は心の中で呟いた。セックスなんて……、若い娘が軽々しく口にするなんて! 時代は変わったのだろうか? いや、自分だってまだ若い。二十八だ。そんなに離れているわけではない。頭の中が一瞬にして真っ白になってしまい、言葉を失ってしまった。ドアを叩くまでにどれだけ考え悩んだことだろう! 俳優のように、その場面を想像し、自分の喋るべき瞬間とその言葉を全部、頭の叩きこんだはずなのに…… 結局、何も言えず引き下がった。
 
その夜、珍しく夫が帰ってきた。地獄の劇の始まりでもあった。夫は怒りを露にして香奈子に殴った。
「一体、お前に何の権利があるんだ? 言ってみろ。いいか、俺はケイに惚れているんだ。誰にも邪魔はさせないぞ」
 幼ない娘が恐怖のあまり泣き出した。その鳴き声がうるさいというので、娘まで殴った。
「お願いだから、子供に手を出さないで。あなたの子供よ」
香奈子は泣きながら頼んだ。
「あなたと別れるわ。約束するから」
 夫は部屋を出ていった。ふと、気づくと、子供は死んだように動かない。
「どうしたの? なんとか言って頂戴」と何度も肩を揺すっても、幼子は虚ろな目をして言葉を出さない。
 翌日、子供を連れ病院に連れていき、診察を受けた結果、精神的ショックによる失語症と診断された。
 香奈子はめまいがして倒れた。目を覚ますと、自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。まだ春先なのに、夏を思わせるような強い日差しが病室に射している。
 ベッドから降り、彼女は窓の外を見た。
 空には光輝く混じりけのない青が拡がっている。こんな青い空は東京では見たことがなかったような気がした。故郷の空とそっくりだとも思った。
そこは海に面する小さな集落で、時間の止まったような静かな村である。子供の頃、いつも海を見ては、青く光る海の彼方の世界を想像したりしたものだった。……もう久しく故郷に帰っていなかったことに気づき、目が涙で滲んだ。振り返ると、娘が椅子にちょこんと腰掛けている。まるで写真を撮るのを待っているポーズだ。あの時以来、夫に叩かれて以来、心を失ったような無表情な顔をしている。
香奈子は娘に近寄り、その小さな肩に手を置いた。
「レイ、海に行こうか?」
 娘はきょとんとした目で母親を見た。今にして思えば、こんな風に快活な声で話かけたことは、ここ一年なかった。いつも心の中はすさんでいた。
 香奈子はこうも考えた。夫を失ったところで、この小さな愛の固まりのような、宝石よりも美しい瞳をした娘がいるではないかと。突然ひらめいた。海に行こうと。青い海に出会えば、自分の進むべき道が見出せるような気がした。いや何もないかもしれない。それでもいい。何か忘れていた。それが何であるのか、娘を連れて、それを確かめてみたい。故郷の海を離れて、まだ十年しか経っていない。光輝く海の青さに出会えば、少女の頃の自分に出会える、そんな気がしてきた。いろんな夢を持っていた、あの頃に。
作品名:海に行こう 作家名:楡井英夫