夢の終わり
由里は作曲家になる夢を本当に考えたのは、あれは大学の頃。有名な教授に「君はなかなかいいセンスがある」と言われた。その一言が彼女の人生を大きく変えた。彼女は作曲家になることを夢見て、東京に出た。それから十年、なかなか芽が出ず、ときには爪に火を灯すような暮らしをしてきた。過ぎ去った十年の歳月は辛い以外なにものでもなかったのである。
今、六本木にあるクラブでピアノを弾いて、何とか生活している。そのクラブは大企業の管理職がよく来るクラブである。
店のオーナーは冬子というママで、四十過ぎているのに、少しも均整のとれた体をしていて、三十ぐらいにしか見えない。同じ秋田の出身だったので、冬美は快く由美を使った。
「若いって、いいわね。わたしは夢なんか何もないわ。あるのは現実だけ。でも、あなたの夢は夢。仕事は仕事。しっかりやってね」と初めて来た日、冬子はそう言った。 ちょっと厳しい言い方であったが、由里には良かった。自分の夢を簡単に他人に理解されるとは思わなかったし、また理解されようとも思わなかったのである。店の誰も彼女が有名な芸術大学を出ていることは知らない。
店の女の子たちがそっとひそひそ話をしていたのを偶然にも聞いてしまった。由里のことを「乾いた女」と言っていた。どういう意味だろう? 女気がなく、つまらないということだろうか。昔は可愛い顔をしていた。男から声を掛けられたことだって数えきれなかった。しかし、いつの間にか、夢だけが残って、周りに誰もいなくなった。酔っ払いも誘ってくれない。
冬のある日のことである。酔っぱらいがピアノを弾く由里の前にきた。下手な歌の伴奏をやらされた。
歌い終わった酔っ払いは「君は笑わないね」と言った。
「笑わない女なんか、かわいくないよ」と言った。そのことが気になって、仕事を終えた後、部屋でじっと鏡を見た。確かに何かが張り付いた強張った顔をしている。 過ぎた十年を思った。作曲家になりたいという夢と、夢を見続ける可愛げのない顔だけが残った。夢は実現しそうもないことはとうに分かっていた。それでも、いつかはという淡い希望を抱いていたが、かわいくないと言われたことで何かが壊れた。作曲家なんか夢みなければ、良かったと後悔した。が、後悔したところでどうしょうもなかった。
その日、珍しく東京に雪が降った。
春の淡雪である。
真夜中に目を覚ました。久しぶりに故郷の夢を見たことを思い出した。切なさを感じた。涙がとめどうもなく流れた。
カーテンを開け窓の外を見た。
雪は止み、月が出ていた。
故郷の冬もそろそろ終わる頃だろう、やがて春が来て、新しい扉が開く。
この部屋を出よう。新しい自分を探そう。由里はそう自分に言い聞かせた。