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Crataegus cuneata,

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 薄いベージュのタオルケットを頭から被って、ベッドサイドの窓枠に肘をつきながら座っていた。サイドテーブルには通販で一目惚れしたコーヒーメーカーと、グレーのマグカップを一つ置いて、淹れ終わるまでの時間を、ずっとそうして過ごす。
 眠れない日、眠たくない日、寝たくない日を、僕はそうしてやり過ごすことにしていた。
 薄いレンズ越しに、頭一つ分周りよりも高いマンションの、この部屋から空を見上げても、星はほとんど見えない。夜更けの街を煌々と照らす満月から一歩欠けた月が、我が物顔で空を横切っているからだ。
 優しい微笑みを湛えた光がゆるりと空を行きすぎる途中で、僕の部屋を覗きこんで、ベッドに影絵を作る。影絵はゆらりと伸びて、机の上の書き散らかされたメモ用紙を撫でた。
 僕の口から、指元から、くゆる紫色の煙を灰色に落とし込んで、月は笑った。

「驚くべきお話をしようと思うのです。悲しむべき話をしようと思うのです。滑稽な話をしようと思うのです。ワタクシが知っている限りの一番の話をしようと思うのです。――聞いていただけますか。」

 月がゆっくりと一言ずつ、噛み締めるように僕に語りかけてきた。僕は何も言わずに、丁度中天に近いところを行こうとする月を見上げた。
 眠れない日、寝たくない日――月は時々こうして僕に話しかけてくる。
 現か夢か、僕には判断がつかないほど曖昧な微笑みを浮かべて、月はぽつりぽつりといくつかの話を語って、勝手に過ぎ去っていく。
 こういう日は、いつもそうだ。
 開け放した窓から無遠慮に押し入る語り手を、僕は締め出したりはせずに、片手をゆらゆらと振って、「いいよ。」と応じた。窓枠に灰がひらりと舞った。
 それでは――、と月が語り出すのを、僕は静かに待った。
                  
                  ○

 一人の男にまつわるお話です。

 その男はとても好い男でした。北のはずれの片田舎で一人で絵を描いて生きていた彼は、顔のつくりが特別いいという訳でも、特別によい声を持っている訳でも、お金を持っている訳ではありませんでした。むしろ、彼は不器用で、一見すれば途方もない愚図か、どこかが足りていないように見えました。
 しかし、彼は正真正銘この世でも最も好い男の部類に入る男でした。
 彼は一人を一途にずっと想い続けられる男でしたから。
 彼は不器用な男でしたので、他人と話すのがとても苦手でした。他人の輪に入れず、何をするにも一歩遅れて、ぎこちなく笑っておりました。
 彼が不器用でないことはただ一つ、絵具を形にすることだけでした。それだけは彼のたった一つの誇りでした。
 とある晩、ワタクシは彼が泣いているのを見たことがあります。声をたてずに身体を丸め、窓の傍で蹲っておりました。ワタクシの光から逃げるように膝を抱えた彼はとても痛ましく、また気づけば子供のように泣いていたのです。
 彼になにがあったのか、ワタクシは知りません。
 ただ、彼がワタクシを見上げてたった一言、「ごめんなさい」とだけ悲しげに呟いたのを覚えています。今でもその声を思い出せば、ワタクシは震えて光を零しそうになります。それほど悲しみというものを湛えた声をしていたのです。
 彼はそれから時々、ワタクシを見上げてはごめんなさいと呟きました。
 彼は好い男でした。しかし、ずっと可哀そうな男でもありました。
 彼には愛した人がありました。何度もその名を囁いた愛しい人がありました。彼女の名を、オルカといいました。
 オルカも彼を好いておりました。彼が愚図だと言われても、オルカだけは彼と話すことが好きでしたし、彼にしかしない秘密の話ももっておりました。オルカは彼の心やさしい部分をきちんと知っていたのでした。
 しかし、彼女が本当に愛していた人は他におりました。オルカは、本当に愛した男と結婚したいと望んでいました。
 
 彼はそれを知っていました。
 
 月夜の晩、オルカと彼は田舎の火祭りの帰り路をワタクシの光を頼りに歩いておりました。ワタクシはそれをじっと追いかけておりました。
 オルカは彼に言いました。

「本当の幸福ってなんだとおもう?」
「…さあ。」

 彼はオルカの後ろをついて歩きながら、ふわふわと揺れる覚束なげなスカートの裾を見ておりました。顔を上げてオルカの後ろ姿を見る勇気すら彼にはなかったのです。
 オルカを見れば、彼は自分の恋心をあっという間に見破られてしまうのだと直感していました。今まで隠し通せていたのは、全くの奇跡なのだと彼は自分に言い聞かせていました。

「分からないの?」
「…分からない。」
「じゃあ教えてあげるわ。」

 オルカはくるりと彼に向き直りました。オルカの表情は、青白い光に照らされていても分かるほどの情熱と幸福とに満たされたものでした。
 振り向いたその瞬間に、彼はオルカが言わんとすることを理解しました。
 ――そして、オルカは彼の恋心に気付くことはありませんでした。

「それはね、愛した人と結婚することよ。」

 ワタクシの光を浴びたオルカは、幸せそうな顔でそういいました。火祭りの最中に、オルカはようやく愛した男との結婚を実らせたのでした。彼はそれを聞いて、そうか、と呟きました。

「…なるほど、オルカはとても幸せそうだ。おめでとう。心から祝福するよ」
「ありがとう!」

 そういうやりとりが彼らの間であった一週間後、オルカは愛した男の元へ嫁いでゆきました。彼は一枚の絵を彼女へのはなむけに送りました。
 それは、サンザシの花を抱えたオルカの肖像画でした。
 彼があの晩から心の限りを尽くして描きあげたその絵は、オルカの腕の中で静かに微笑んでおりました。彼は、庭に咲く彼女の愛した愛らしい花で画面を埋め尽くして見せたのでした。
 ワタクシが真実の丸を湛えて空を行く日の夜に、オルカは花嫁衣装とその絵を抱えて、馬車に揺られてゆきました。
 オルカは、ついぞ彼の気持ちを知らずに純白の花嫁として彼の前から去っていったのです。胸に彼の恋を抱きながら。
 ワタクシが彼の笑顔をみたのは、その晩が最後でした。そのあと彼がどうなったか、ワタクシは知りません。
 彼の絵は、北の田舎から出た、彼女の子供が残した家の暖炉の上に飾られているのを、窓辺からこっそりと覗きこんで以降、何処かへ仕舞われてしまったことだけを、ワタクシは知っています。

                  ○                 

 それから数十年とたった、とある冬の晩、ワタクシは勝手気ままに空を渡っておりました。
 そこで彼に出会ったのは、途方もない偶然の産物でした。
 彼は北大西洋の暗くて深い海から、彼にとっては未知の世界に等しい場所に居るワタクシに話しかけてきたのです。
 ごめんなさい、と悲しげに鳴く彼を見て、私はようやくあの日の彼がどうなったのかを悟りました。
 彼は、暗く深い水底で、ずっと彼女を探していたのです。
 滅多に口を開かない彼が、今はもうない彼女の名前を呼びました。その声は、彼の小さくて大きい身体から海を揺るがさんばかりのこだまとなって響きました。その声に返ってくる声は、ただ彼自身の声だけでした。
作品名:Crataegus cuneata, 作家名:御門