誘拐犯とパンケーキ
「動くな」
声色と口に当てられた手のごつい感触から予想するに、男だろう。突然背後を取られた。
声を出せない。心臓が早鐘のごとく鳴っている。ネグリジェ越しに夜風を感じ取った私は、先に戸締まりをしておくべきだったと瞬間的に後悔した。一冊の読みかけの本を目の前の本棚に静かに置き、そのままゆっくり両手を顔の高さまで挙げた。
「この家の娘だな」
眉間に皺が寄る。イイエ違いますと声をあげて否定したかったが、反応しようもなくどこも動かせなかった。動いたら背中に突きつけられた刃物が刺さってしまいそうで怖い。
沈黙をどう捉えたのか、背後の男は歯と歯の間に布を差し込んで言葉を奪い、後ろ手に両手首を結びつけ自由を奪った。手際の良さに慣れてるなとちょっと冷静に感心する。
「お前に直接的な恨みはないが、用がある」
ついてこい。
ぞっとする低音を耳に吹き込まれる。私は背を押されるまま、開かれた窓へと歩を進めた。
二日後に剪定師さんが切ってくれる予定の伸びた樫の枝。誘拐するからにはこういう予定までお見通しなのだろうか、不安定な枝葉を足場に、二階から木を伝って外壁を飛び越える。がさがさ音がしないわけでもないけれど、門番がいるわけでもない人通りのない道。家の中からなら風が吹いた程度にしか聞こえないだろう。
抱えられ着地した反動で、舌を噛まない代わりに喉奥に唾が逆流して苦しくなった。でも満足に咳き込むことも出来ず、私は一気に青冷める。
「静かにしろ」
無茶を言うなと。
男は酸欠の私をグイと引っ張り、すぐそこに留めてある馬車へ私を押し込んだ。
「よくやりましたね」
「ああ」
運転手が男に声をかける。多くは交わさず、二人は私に目隠しまでして、夜の街道を抜けていった。
猿轡を外されたのは空が白んできた時間帯だった。晩中馬車を走らせていたことになる。正直なところ、私は半分寝ていた。
途中まで直進距離とどちらに曲ったかを考えて地図を脳内で描いていたけど、七回目の角で石を跳ねた瞬間、地図が線と点に戻ってしまった。無駄な抵抗は止めにして、これからどうしようか考えたり、男の身じろぎひとつに警戒していたけど、そのうち舟をこいでしまったのだ。馬車が止まって目が覚めたら、「来い」と一言、例の男が腕を引っ張り、どこか屋内に連れ込まれた。生命の危機よりも貞操の危機を感じながら、椅子に座らされ、後ろ手はそのままに胴体と腕と背もたれを縄で縛られる。私が抵抗しないのを確認して、目隠し、猿轡の順に外された。一晩ぶりに回復した視界はそれなりに良好だった。部屋に一枚だけある窓にはカーテンがかかっているも、朝の空はほんのり室内を歩きやすくしていた。
運転手の姿は見えない。
黒髪の男が埃まみれの床を一歩動いた。手には鞘入りのナイフ。抜き身じゃないのは今すぐ殺すつもりはない意思表示なのだろうか。
「早速だが、フレーダ嬢」
「違うわ」
やっと言えた。
男の眉が一瞬歪んだ。次の言葉を言わせる前に、私は素早く口を動かす。
「私はリナリア。リナリア・タキよ。マヤ家のフレーダお嬢様じゃないわ」
「リナ……、タ?」
「リナリア・タキ」
本名を繰り返す私に、長身な男は猫背気味に肩を揺らした。思いっきり素が出ている気がする。
「……悪い、オレ自分のより長い名前覚えられないんだわ」
さっきお嬢様の名前は言ってたじゃないのとは突っ込まない。逆上されて刺されてもバカだ。
目に見えて男はがっくり肩を落とした。当たり前だ、攫うはずの人物を間違えて連れてきてしまったかもしれないのだから。確かに髪は似たような亜麻色、背丈も私がちょっと高いくらい、年齢も私が十五のお嬢様が十四。暗闇の中、ネグリジェ姿だときらびやかさもわからないだろうから、間違えるのも無理はないと思うけど。信じられないのか信じたくないのか、半信半疑の眼差しで男は私を見下ろした。てっぺんから爪先まで見遣って、疑わしげに目を細める。
「……本当に?」
「お嬢様の部屋にいてお嬢様名義の本を片付けていたからって、フレーダお嬢様本人って決めつけないで欲しいわ。私はただの使用人。住み込みの家政婦よ」
マズイ、と小声で呟いたのが聞こえた。私は胸を張る勢いで続ける。
「証拠なんてこの姿を見ればわかるでしょ?“お嬢様”がこんな貧相なネグリジェを着ると思う?」
大分明らんできた部屋の中、私は縛られたままガタガタ椅子を揺らす。つられて揺れる夜着の裾は、よく見れば古着もいいところの質素なもの。
それを薄目に認めて信じ始めたと見える男に、私は一気に畳み掛ける。
「わかったでしょう? さあ早く縄と解いてちょうだい」
「それは無理だ」
男は今までのうろたえが嘘のようにキッパリと言い切った。何でと続けようとした私を遮り、男は溜息と共に続ける。
「オレがお前を攫ったときに、アスは手紙をポストに入れておいたはずだ。お前がフレーダ嬢にしろただの家政婦にしろ、事はもう動き出してる」
アス。きっと運転手の名前だ。覚えながらの「だから?」挑発的ともとれる私の発言に、男はイライラと口を曲げた。
「ただの家政婦だとしても、住み込み人を切り捨てるほど人情に欠けてねぇだろ。世間体もあるだろう。金を受け取るまで帰すことはできない」
「誰が帰してと言ったかしら」
鼻で笑うとはこういうことをいうのだろう。男は今度こそ舌打ちをして私を見た。睨まれてもさっきの素の様子を見てしまったから、殺されるとは思わなかった。
「あなたたち本当にプロ? 感心した自分がバカみたいよ」
泣いて帰してというとでも思っていたのだろうか。大分傷んだカーテンが小さな穴から短い黒髪に朝日を届ける。思えば深緑のカーテン、結構好きだった。
「……いいわ、教えてあげる。ここは私の昔の家。攫いたかったらしいフレーダお嬢様の家、そのマヤ家に潰された、タキ家の邸よ」
「……」
男は何も言わなくなった。
声色と口に当てられた手のごつい感触から予想するに、男だろう。突然背後を取られた。
声を出せない。心臓が早鐘のごとく鳴っている。ネグリジェ越しに夜風を感じ取った私は、先に戸締まりをしておくべきだったと瞬間的に後悔した。一冊の読みかけの本を目の前の本棚に静かに置き、そのままゆっくり両手を顔の高さまで挙げた。
「この家の娘だな」
眉間に皺が寄る。イイエ違いますと声をあげて否定したかったが、反応しようもなくどこも動かせなかった。動いたら背中に突きつけられた刃物が刺さってしまいそうで怖い。
沈黙をどう捉えたのか、背後の男は歯と歯の間に布を差し込んで言葉を奪い、後ろ手に両手首を結びつけ自由を奪った。手際の良さに慣れてるなとちょっと冷静に感心する。
「お前に直接的な恨みはないが、用がある」
ついてこい。
ぞっとする低音を耳に吹き込まれる。私は背を押されるまま、開かれた窓へと歩を進めた。
二日後に剪定師さんが切ってくれる予定の伸びた樫の枝。誘拐するからにはこういう予定までお見通しなのだろうか、不安定な枝葉を足場に、二階から木を伝って外壁を飛び越える。がさがさ音がしないわけでもないけれど、門番がいるわけでもない人通りのない道。家の中からなら風が吹いた程度にしか聞こえないだろう。
抱えられ着地した反動で、舌を噛まない代わりに喉奥に唾が逆流して苦しくなった。でも満足に咳き込むことも出来ず、私は一気に青冷める。
「静かにしろ」
無茶を言うなと。
男は酸欠の私をグイと引っ張り、すぐそこに留めてある馬車へ私を押し込んだ。
「よくやりましたね」
「ああ」
運転手が男に声をかける。多くは交わさず、二人は私に目隠しまでして、夜の街道を抜けていった。
猿轡を外されたのは空が白んできた時間帯だった。晩中馬車を走らせていたことになる。正直なところ、私は半分寝ていた。
途中まで直進距離とどちらに曲ったかを考えて地図を脳内で描いていたけど、七回目の角で石を跳ねた瞬間、地図が線と点に戻ってしまった。無駄な抵抗は止めにして、これからどうしようか考えたり、男の身じろぎひとつに警戒していたけど、そのうち舟をこいでしまったのだ。馬車が止まって目が覚めたら、「来い」と一言、例の男が腕を引っ張り、どこか屋内に連れ込まれた。生命の危機よりも貞操の危機を感じながら、椅子に座らされ、後ろ手はそのままに胴体と腕と背もたれを縄で縛られる。私が抵抗しないのを確認して、目隠し、猿轡の順に外された。一晩ぶりに回復した視界はそれなりに良好だった。部屋に一枚だけある窓にはカーテンがかかっているも、朝の空はほんのり室内を歩きやすくしていた。
運転手の姿は見えない。
黒髪の男が埃まみれの床を一歩動いた。手には鞘入りのナイフ。抜き身じゃないのは今すぐ殺すつもりはない意思表示なのだろうか。
「早速だが、フレーダ嬢」
「違うわ」
やっと言えた。
男の眉が一瞬歪んだ。次の言葉を言わせる前に、私は素早く口を動かす。
「私はリナリア。リナリア・タキよ。マヤ家のフレーダお嬢様じゃないわ」
「リナ……、タ?」
「リナリア・タキ」
本名を繰り返す私に、長身な男は猫背気味に肩を揺らした。思いっきり素が出ている気がする。
「……悪い、オレ自分のより長い名前覚えられないんだわ」
さっきお嬢様の名前は言ってたじゃないのとは突っ込まない。逆上されて刺されてもバカだ。
目に見えて男はがっくり肩を落とした。当たり前だ、攫うはずの人物を間違えて連れてきてしまったかもしれないのだから。確かに髪は似たような亜麻色、背丈も私がちょっと高いくらい、年齢も私が十五のお嬢様が十四。暗闇の中、ネグリジェ姿だときらびやかさもわからないだろうから、間違えるのも無理はないと思うけど。信じられないのか信じたくないのか、半信半疑の眼差しで男は私を見下ろした。てっぺんから爪先まで見遣って、疑わしげに目を細める。
「……本当に?」
「お嬢様の部屋にいてお嬢様名義の本を片付けていたからって、フレーダお嬢様本人って決めつけないで欲しいわ。私はただの使用人。住み込みの家政婦よ」
マズイ、と小声で呟いたのが聞こえた。私は胸を張る勢いで続ける。
「証拠なんてこの姿を見ればわかるでしょ?“お嬢様”がこんな貧相なネグリジェを着ると思う?」
大分明らんできた部屋の中、私は縛られたままガタガタ椅子を揺らす。つられて揺れる夜着の裾は、よく見れば古着もいいところの質素なもの。
それを薄目に認めて信じ始めたと見える男に、私は一気に畳み掛ける。
「わかったでしょう? さあ早く縄と解いてちょうだい」
「それは無理だ」
男は今までのうろたえが嘘のようにキッパリと言い切った。何でと続けようとした私を遮り、男は溜息と共に続ける。
「オレがお前を攫ったときに、アスは手紙をポストに入れておいたはずだ。お前がフレーダ嬢にしろただの家政婦にしろ、事はもう動き出してる」
アス。きっと運転手の名前だ。覚えながらの「だから?」挑発的ともとれる私の発言に、男はイライラと口を曲げた。
「ただの家政婦だとしても、住み込み人を切り捨てるほど人情に欠けてねぇだろ。世間体もあるだろう。金を受け取るまで帰すことはできない」
「誰が帰してと言ったかしら」
鼻で笑うとはこういうことをいうのだろう。男は今度こそ舌打ちをして私を見た。睨まれてもさっきの素の様子を見てしまったから、殺されるとは思わなかった。
「あなたたち本当にプロ? 感心した自分がバカみたいよ」
泣いて帰してというとでも思っていたのだろうか。大分傷んだカーテンが小さな穴から短い黒髪に朝日を届ける。思えば深緑のカーテン、結構好きだった。
「……いいわ、教えてあげる。ここは私の昔の家。攫いたかったらしいフレーダお嬢様の家、そのマヤ家に潰された、タキ家の邸よ」
「……」
男は何も言わなくなった。