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ホットケーキ

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ナイフをいれると、じゅわっと溶けたバターがよくしみ込んでいるのがわかった。
 ホットケーキにバター、マーマレードにクリームチーズ。茶色に黄色、オレンジに白。
 胸焼けしそうな組み合わせはしたたかに私を魅了する。
 太ってもいいじゃん、これを食べられるなら。
 6ピースに切って、溶けたバターのしずくとジャムをからめて口に入れる。次は、チーズをのせて食べよう。とろとろに溶けたマーブルの液体をホットケーキのスポンジが吸い込む。
 朝の、しん、とした、うっすらと日が昇る、透明な青の時間。
 そんな朝に、一人、ホットケーキを食べる。
 段に積み上げられたホットケーキの前で、一人、食べる。

 ゆうこが出て行ったのは昨日の夜、夜になる前のことだった。
 
上京して、もう「おのぼりさん」の肩書きも外れて大分経った頃に、私はゆうこを拾った。犬猫じゃあるまいし、拾ったなどという言い方は私の人間性が問われるかもしれないがあれは拾ったとしか言いようがない。バーのバイトでたまたま同じシフトだった明るい髪の女、そいつが笑って言ってきたのだ。

 お金がない。男もない。住む処もない。仕方ないから、ねぇ、あんた、私と友達になってよ。

 なんだそれは。私はその日入って来たばかりの新人に驚いていた。色々聞き流すにしたって、「仕方ない」はないだろう。そういって友達を選ぶヤツはろくなヤツじゃないってことぐらい私だって知っている。それでも不必要に波風を立てないことだって知っていたから、へらっと笑って言い返した。
 
 友達になって、どうするの。

 ゆうこは笑う。

 そうすれば、あんたのとこに私が住めるじゃないの。

 まるで当然のようにそれを言ったゆうこは、その晩、これまた当然のように私のベッドの上で寝息を立てていた。なんでゆうこを連れ帰ったのか、今でもよくわからない。私を「あんた」と呼びながら、ゆうこの目が怯えているように見えたからかもしれない。子供が精一杯背伸びをして大人ぶっているような、けれど後ろで舌出している悪魔だとも判っていながら、結局私はゆうこの前に自分が住むアパートの玄関扉を開けてやっていた。寝るまでにゆうこは呑気に話し、金が無く、住む処も無くなったのは同居していた男と別れたからだという。

 私の金、全部パチンコでスリやがったの。だから、包丁で刺して飛び出してきちゃった。

 私は一応、聞き返した。ゆうこは、打ち消すこともせずにもう一度同じことを言う。風呂に入って濡れた髪をタオルでごしごし拭きながら、あっけらかんとしていた。

 丁度ホットケーキを作ってたらさ、あいつ、私に抱きつきながら言うの。「悪い、お前の金、全部スッちまった」って。

 その金は二人の結婚資金にしようと考えていたから、よく考えたら別にいいよな?とまで言ったしい。ゆうこはその時、まな板の上に出ていた包丁が目に入ってそれを掴んだというのだ。

 ほんと、刺して正解。

 私のベッドに入りこみながら言うゆうこに、とりあえず私はその日作ろうとしたメニューを聞いておいた。

 ホットケーキとコーヒー、それがあれば他はいらないよね。

 とにかく眠ることにした。ベッドに入りこんだ人間は殺人者じゃなく、タダの嘘吐きだ。どこまで嘘か知らないが、とにかくホットケーキで使う道具がボウルと泡だて器とお玉とフライパン程度だということぐらいは私だって知っている。これが刺殺じゃなくて撲殺ならゆうこを追い出していたのに。

 ゆうこは出て行った。
 私はゆうこがあの日作ろうとしたホットケーキを時間をかけて食べている。

 なんであの時にゆうこを部屋に招いたのだろう。もしかしたら麻薬や借金のトラブルを抱えてそれをこっちにまで浸食させようとしているのかもしれないのに。傍若無人な人間たちを連れて来て私を餌にしてしまうのかもしれないのに。そういう不安は、実はあの時考えていなかった。女の、と言う程のものではないが、なんとなく、勘だった。まあ、この人ならいいだろう、ぐらいの程度だ。それが実はゆうこもそうだったとは翌朝知った。

 あんたさ、しばらく男、いないでしょ。

 翌朝用意されていたホットケーキをフォークでつつきながらゆうこは言った。私が殆ど何もない冷蔵庫と棚のストック事情から選んでしまったメニューだ。ボウルにタネをかき混ぜていた時に気付いたゆうこは吹き出していたけど。六等分に切るナイフを見ながら、これで刺されたら死ぬのだろうかと考えていた。その時に、ゆうこの声が被さって来たのだ。

 いないよ。なんで?

 私はインスタントコーヒーを啜って聞く。

 だって、あんた、ずっと私の腕に手を置いていたんだよ。

 恋人がいなくなってから暫く間が開いていた。隣に居る人がいないのが普通になった。だから、朝起きた時に自分の手が何を触っているのかに気付いて、自分にぞっとした。
 
 いいけどね。こっちは泊まらせて貰っているわけだし。

 それはゆうこが、何かに対して私に勝ったとでも言いたい含みがあった。私の方も、ゆうこの言葉に彼女の今までの暮らしが透けて見えた気がした。
私はゆうこを養うつもりも匿うつもりもなかった。ゆうこもバイトを何件か掛け持ちしていたし、生活費は折半してキチンと出してさえいた。ただ、今の状態じゃ部屋を借りられないと言って身一つのまま私の部屋に住んでいた。洋服や最低限の日用品だけをボストンバックに詰めた、それがゆうこの持ち物全てだった。
 
 他は持ってこないの?
 
 別れた恋人の家に置いてあるゆうこの荷物のことだ。

 全部捨てたの。

 ゆうこが刺したという男もなにもかも、前のアパートに置いてきたつもりらしい。捨てた置いてきたと言うにはゆうこの体にはねばねばと前に住んでいた場所からひく糸が繋がっているのが見え過ぎていた。私は一度、戻ったらどうかと諭した。ゆうこはそれをにべもなく断った。

 礼儀的に言うだけなら、言わなくていいから。
 
 それから私は一度も帰るように言っていない。
 愛しくなんかない、隣にいる存在。朝、向き合ってご飯を食べて、あとは適当に過ごしていた。ベッドに入るとどちらともなく抱きしめるようになった。それ以上のこともなく、ただ抱きしめあった。なんなのだろう。あの、静かで、どうしようもなかった時間は。

 ホットケーキは最後の一切れになった。バターもジャムも、チーズももう載っていない。何かが滲みこんだ、最後のワンピースを私は咀嚼する。

 ゆうこが出ていった原因は、警察が来たからとか、前の恋人が来たからとか、仕事がクビになったからだとか、そんなことではない。
 あるとしたら、それは私だった。
 言ってしまえば、一緒に暮らしていても、何か合わなくなって来ていたのだ。何か、違う。そうどこかで思うようになっている、というのは、互いに顔を見ればわかった。そのうちにゆうこは帰らなくなり、昨日の夕方、バイトから帰ればゆうこの荷物はそこになかった。渡していた合鍵はポストに入れてあった。携帯にメールは無い。よく考えればアドレスをお互いに教えていなかった。
作品名:ホットケーキ 作家名:松中 香