線引きされた
つまらない話だ、と男は足下に横たわる線路に視線を落とした。長い時間点検を受けずに放置された線路は錆び付き、レールは波打つように歪んでしまっていた。これでは到底電車が走れそうにない。一定のリズムで鳴り響く警報音が皮肉にさえ思えてきた。
どこか痛々しくさえある線路の末路から目を背けるように男は面を上げた。額に張り付いた髪を片手で掻き上げ、視界の妨げにならぬように後ろに撫で付ける。水分を吸って重くなったシャツとズボンは不快だったが、着替える気にはならなかった。
不意に雨音とは違う水の跳ねる音が近付いて来た。少し明確になった視界の先、遮断機の向こうに一人の女性がいた。彼女は傘も差さず、美しい胡桃色の長い髪が濡れるのも厭わないで何かを必死に叫んでいた。そう離れた距離ではないのだが声は雨音に掻き消されて要領を得ず、ただ判然としない音にしか聞こえなかった。
雨が更に強まる。視界が十分に利かない程に土砂降りの雨。断片的な音すら雨音に紛れてしまう。姿形すら曖昧で、最早色の塊にしか見えなくなった彼女から目を離さず男は小さく呟いた。
「もう二度と帰らないと、そう言ったのに……それでもあなたは私に触れてはくれないのですね」
遮断機の向こうに佇み、近付いてくる気配のない彼女。十メートルもないであろう距離が遠く感じられた。けれどもその距離は決別にはあまりに近い。今すぐにでも駆け出して彼女の元に帰りたい。でも、それではまた同じことの繰り返しだ。
警報音が鳴り止み、遮断機が上がっていく。男は唇を噛んで、一度頭を振って彼女から視線を外し踵を返した。遮断機が上がり切るのと同時に線路を出る。重い足取りで一歩。未練を振り切るかのように速度を上げて二歩、三歩。
背中に音が追い縋る。警報音が阻害しない今、漸く言葉として聞こえるそれはひたすらに懇願を続けていた。
「――がい、お願い! 行かないで……!」
痛切な響きを伴った懇願も、最早男の歩を止めることはかなわない。男は彼女の声を振り切るように駆け出した。雨の壁を突き破るように必死に、両手を全力で振る。叩きつける雨が痛い。水分が喉に張り付くようで呼吸が苦しい。
ただひたすらに駆け抜けて、両足が思い通りにならなくなる頃、漸く男は足を止めた。振り返れば視界には雨。どこまでも雨。
それでもその向こう、遥か先の線路の向こうに彼女がいることを男は知っていた。そして彼女が、自分が戻ってくることを盲目的に信じて叫び続けていることも。――彼女はいつも、そうだったから。いつだって酷く優しい言葉をくれるばかりで……ただの一度さえ、引き止めてはくれなかった。
「私が欲しかったのは言葉じゃないんです……ごめんなさい」
一度でいいから、追いかけて、抱き締めて欲しかった。そうしてあなたが私を必要としていることを示して欲しかった。
整わぬ呼吸のまま男は天を仰いだ。雨が強かに顔を打つ。目を開けていられずに男は目蓋を閉じた。水を吸い込まぬように口を小さく開けて深く息を吸い、吐く。そうして呼吸を正し、再び顔にかかっていた髪を掻き上げた。早鐘を打つ心臓が痛い。
遠くで再び警報音が鳴り始めた。男の口から自嘲気味の笑いがこぼれた。目元が酷く熱い。奥歯を強く噛みしめれば、頬を熱い滴が伝い落ちていった。笑い声が震える。
「はは、は……もう、帰れない」
口に出して改めて喪失感に襲われた。ああ……これから一体どこへ行けばいい?
力なく立ち尽くす男を余所に雨はいつまでもいつまでも降り続けていた。
【線路の向こう側】