砂色世界の救命師
「仕事……? 兄さん」
「ああ、仕事だ。そんなにかからないはずだから、すぐ帰ってくる」
上着を肩に背負って、兄さんは扉を開けた。そこから入ってきた風のおかげで、兄さんの肩に触れる、くすんだ茶の髪が、少しだけなびいた。
「今度の人……死にたいって言ってるの? 病気は治せないの?」
「死にたいと言ってる。病気は……わからん。だが俺は患者の意思を尊重したいからな」
風に混じって地面の砂も吹き荒れる中、兄さんは上着を羽織りながら、黄土色のもやの中に消えた。
兄さんの仕事はこの世の理にかなってる。でも、本当にそれだけなのかな……。
兄さんが出かけてまもなく、珍しくお客さんが来た。しかも知らない人だ。
「スラナ先生はいるかい?」
僕はその人を見上げた。兄さんと同じくらいの背だ。この砂嵐に慣れてない人なんだろうか、体は砂より少し濃い色のマントで覆われている。薄手の長い布で口元を覆って、フードもかぶってる。そういう格好なので、顔は全然見えなかった。
「今は出かけてていません。すぐ帰ってくると思いますけど」
「そうか。じゃあ中で待っててもいいかな?」
「え、ええ。かまいませんけど……」
声からして、やっぱり兄さんと同じくらいの年齢なのかな。大きめのテーブルの周りに置いてる椅子の一つに、その人は座った。座ってから、やっと口元の布と、フードを取った。
「ふう……。ここいらの砂嵐は本当にひどいな。君はスラナの助手かい?」
黒髪の男の人だった。片側だけ少し前髪が長い。頬杖をつきながら、その人は僕に聞いた。
「いえ、弟です。あの……あなたは兄さんと親しいんですか?」
「なんで?」
「だって、兄さんのことを名前だけで呼んだんで……」
初対面なのにぶしつけな質問だったと、言ってから思った。僕が子供だったからなのか、笑顔だったその顔から感情が消えた。
「親し……いのかな。よくわからん仲だ。…………君、名前は?」
「サシです。あの、お茶でもお出ししますか?」
「くれるのかい? じゃあもらおう」
僕は席を立って、すぐそこの岩の壁をくりぬいただけの戸棚から、茶葉を取り出した。自分も飲むから、カップは二つ。
「君は……兄さんがどんな仕事をしてるかって、知ってるんだろう?」
「ええ」
カップにお湯を注ぐ音が止まってから、男の人はまた質問をした。
「それがおかしいと思ったことはあるかい?」
心を見透かされたような気がした。つい、お茶を注ごうとした手が止まった。こういうときだけ、僕に向けられっぱなしだった視線が痛く感じる。
「……ありませんよ。だって兄さんの仕事は、この世で求められているものでしょう?」
「確かに、な……」
僕が置いたカップを見ながら、男の人は呟いた。
「人が死ぬのは当然のこと。人によっては、それで苦しむこともある。その苦しみを取り除いてやるのが兄さんの仕事です。僕は誇りに思ってますよ」
「いいやつだな、君は。きっと、俺みたいな外れ者にはならないだろう」
ついたままだった頬杖を外し、男の人はカップに口をつけた。
「外れ者……? あなたは何をやってらっしゃる人なんですか?」
「聞きたいかい?」
「え、ええ」
男の人が少し笑い、何かを言おうとしたちょうどその時だった。
「帰ったぞ、サシ。すまんな、砂嵐がいつもよりひどくなって遅れた」
確かにいつもよりうるさい風の音と共に、ドアが開いて兄さんが入ってきた。黒に近い紺色の上着から、砂がたくさん落ちた。
「この分だと、かなり長くなりそうだ…………」
言いながら、兄さんはやっと顔をあげた。僕より先に、男の人のほうに気付いた。兄さんの顔が、少し険しくなったように見えた。
「遅かったな、スラナ。人一人殺すのにそんなにかかるのか?」
「砂嵐で遅れたと言ったばかりだろう。それよりユウシ、貴様俺の弟に何の用だ」
今度こそ、兄さんは男の人を嫌ってる態度を隠そうとしなかった。男の人はユウシって名前なんだ。
「お前の弟に用なんかないよ。大体今日初めて存在を知ったんだ。用があるのはスラナ、お前だけだ」
「あの……」
なんだか雰囲気が険悪になってきた。それがものすごくいやだったわけじゃないけど、じっとしてるのはいやだった。
「どうした、サシ」
震えた声になってたかもしれない。それを感じたのか、兄さんはすぐ振り返ってくれた。
「お茶、飲んじゃいましたよね、えっと……ユウシ……さん? 片付けますよ」
「ん? ああ。じゃ、お願いするよ」
ユウシさんは最初に見せた笑顔と共に、カップを僕のほうに置いてくれた。僕は自分の分も持って、台所に走った。少し遠いけど、会話は聞こえる。
「……それで、何の用なんだ」
がたんと音がした。兄さんが椅子を引いて、そこに座ったんだ。
「今さらだけど、お前ホントにこの仕事続ける気か? 今なら戻れるぞ」
「俺がこの道に入ってもう二年だ。それにお前のいる場所は、すでに影になってる。そんなところへ戻れるものか」
影? あのユウシって人は、悪い人?
「だが昔は光だった!」
突然怒号が響いたので、僕は一瞬震えた。
「希望だった行為が、なぜ今忌み嫌われるのかわからん。スラナ、お前もどうしてあの時、影の道なんかに入った」
「……何度も言ったろう。死から救って……何の意味がある。この世界の人間は生に執着しない。救われた後に来る負のことばかり考えて、ほとんどの人間は自ら命を絶つ……。そんな生きようともしない人間を助けて、馬鹿だったんだ俺たちは!」
「勝手に複数形にするな。俺はお前とは違ってな、何があろうと信念は曲げん。確かにこの世界の人間は馬鹿さ。だけどそれは全部じゃない。生きようとしてるやつを、俺は何度も見てきた。お前だって見たはずだ。お前が今やってることは、この馬鹿な人間どもの手伝いだぞ?」
死から救う? 人を救うのは、安らかな死じゃなかったの? 確かに昔と今では、救うことの定義が変わったって、兄さんから聞いてたけど……。
「諦めたのさ、俺は。だからこの世の今の流れに逆らわない、この道に変えた」
「……どうやら無駄らしいな」
呆れたような大きなため息と一緒に、立ち上がる音がした。ユウシさんのほうだ。
「だが忘れんなよ。お前のやってることは人殺しの手伝いだ! いや、殺しそのものだね! 死から救う方法を知りながら、それを施さない。お前は何十人人を見殺しにしてきた!」
手が震えた。兄さんのことをここまでひどく言うなんて。
「サシ!」
僕は走っていた。突然出てきた僕に、兄さんは驚いたように振り向いた。椅子から立ち上がっていたユウシさんの前に立ち、真正面から見上げて、僕は叫んだ。
「ユウシさん! 兄さんのことをそんなふうに言わないでください! どうしてそんなに責めるんですか? 兄さんは人を救う、一番の仕事をしてるのに! あなた、自分で自分のこと外れ者って言ってましたよね。影の人とも言ってました。なら兄さんの、今求められてる大事な仕事に口を出さないでください! 兄さんを悪い人なんかに……!」
まともな息継ぎもしないで、僕はまくし立てていた。ユウシさんの驚いた顔が、かすんで見える。長距離でも走ったときみたいに、息が荒い。胸が……痛い…………
「ああ、仕事だ。そんなにかからないはずだから、すぐ帰ってくる」
上着を肩に背負って、兄さんは扉を開けた。そこから入ってきた風のおかげで、兄さんの肩に触れる、くすんだ茶の髪が、少しだけなびいた。
「今度の人……死にたいって言ってるの? 病気は治せないの?」
「死にたいと言ってる。病気は……わからん。だが俺は患者の意思を尊重したいからな」
風に混じって地面の砂も吹き荒れる中、兄さんは上着を羽織りながら、黄土色のもやの中に消えた。
兄さんの仕事はこの世の理にかなってる。でも、本当にそれだけなのかな……。
兄さんが出かけてまもなく、珍しくお客さんが来た。しかも知らない人だ。
「スラナ先生はいるかい?」
僕はその人を見上げた。兄さんと同じくらいの背だ。この砂嵐に慣れてない人なんだろうか、体は砂より少し濃い色のマントで覆われている。薄手の長い布で口元を覆って、フードもかぶってる。そういう格好なので、顔は全然見えなかった。
「今は出かけてていません。すぐ帰ってくると思いますけど」
「そうか。じゃあ中で待っててもいいかな?」
「え、ええ。かまいませんけど……」
声からして、やっぱり兄さんと同じくらいの年齢なのかな。大きめのテーブルの周りに置いてる椅子の一つに、その人は座った。座ってから、やっと口元の布と、フードを取った。
「ふう……。ここいらの砂嵐は本当にひどいな。君はスラナの助手かい?」
黒髪の男の人だった。片側だけ少し前髪が長い。頬杖をつきながら、その人は僕に聞いた。
「いえ、弟です。あの……あなたは兄さんと親しいんですか?」
「なんで?」
「だって、兄さんのことを名前だけで呼んだんで……」
初対面なのにぶしつけな質問だったと、言ってから思った。僕が子供だったからなのか、笑顔だったその顔から感情が消えた。
「親し……いのかな。よくわからん仲だ。…………君、名前は?」
「サシです。あの、お茶でもお出ししますか?」
「くれるのかい? じゃあもらおう」
僕は席を立って、すぐそこの岩の壁をくりぬいただけの戸棚から、茶葉を取り出した。自分も飲むから、カップは二つ。
「君は……兄さんがどんな仕事をしてるかって、知ってるんだろう?」
「ええ」
カップにお湯を注ぐ音が止まってから、男の人はまた質問をした。
「それがおかしいと思ったことはあるかい?」
心を見透かされたような気がした。つい、お茶を注ごうとした手が止まった。こういうときだけ、僕に向けられっぱなしだった視線が痛く感じる。
「……ありませんよ。だって兄さんの仕事は、この世で求められているものでしょう?」
「確かに、な……」
僕が置いたカップを見ながら、男の人は呟いた。
「人が死ぬのは当然のこと。人によっては、それで苦しむこともある。その苦しみを取り除いてやるのが兄さんの仕事です。僕は誇りに思ってますよ」
「いいやつだな、君は。きっと、俺みたいな外れ者にはならないだろう」
ついたままだった頬杖を外し、男の人はカップに口をつけた。
「外れ者……? あなたは何をやってらっしゃる人なんですか?」
「聞きたいかい?」
「え、ええ」
男の人が少し笑い、何かを言おうとしたちょうどその時だった。
「帰ったぞ、サシ。すまんな、砂嵐がいつもよりひどくなって遅れた」
確かにいつもよりうるさい風の音と共に、ドアが開いて兄さんが入ってきた。黒に近い紺色の上着から、砂がたくさん落ちた。
「この分だと、かなり長くなりそうだ…………」
言いながら、兄さんはやっと顔をあげた。僕より先に、男の人のほうに気付いた。兄さんの顔が、少し険しくなったように見えた。
「遅かったな、スラナ。人一人殺すのにそんなにかかるのか?」
「砂嵐で遅れたと言ったばかりだろう。それよりユウシ、貴様俺の弟に何の用だ」
今度こそ、兄さんは男の人を嫌ってる態度を隠そうとしなかった。男の人はユウシって名前なんだ。
「お前の弟に用なんかないよ。大体今日初めて存在を知ったんだ。用があるのはスラナ、お前だけだ」
「あの……」
なんだか雰囲気が険悪になってきた。それがものすごくいやだったわけじゃないけど、じっとしてるのはいやだった。
「どうした、サシ」
震えた声になってたかもしれない。それを感じたのか、兄さんはすぐ振り返ってくれた。
「お茶、飲んじゃいましたよね、えっと……ユウシ……さん? 片付けますよ」
「ん? ああ。じゃ、お願いするよ」
ユウシさんは最初に見せた笑顔と共に、カップを僕のほうに置いてくれた。僕は自分の分も持って、台所に走った。少し遠いけど、会話は聞こえる。
「……それで、何の用なんだ」
がたんと音がした。兄さんが椅子を引いて、そこに座ったんだ。
「今さらだけど、お前ホントにこの仕事続ける気か? 今なら戻れるぞ」
「俺がこの道に入ってもう二年だ。それにお前のいる場所は、すでに影になってる。そんなところへ戻れるものか」
影? あのユウシって人は、悪い人?
「だが昔は光だった!」
突然怒号が響いたので、僕は一瞬震えた。
「希望だった行為が、なぜ今忌み嫌われるのかわからん。スラナ、お前もどうしてあの時、影の道なんかに入った」
「……何度も言ったろう。死から救って……何の意味がある。この世界の人間は生に執着しない。救われた後に来る負のことばかり考えて、ほとんどの人間は自ら命を絶つ……。そんな生きようともしない人間を助けて、馬鹿だったんだ俺たちは!」
「勝手に複数形にするな。俺はお前とは違ってな、何があろうと信念は曲げん。確かにこの世界の人間は馬鹿さ。だけどそれは全部じゃない。生きようとしてるやつを、俺は何度も見てきた。お前だって見たはずだ。お前が今やってることは、この馬鹿な人間どもの手伝いだぞ?」
死から救う? 人を救うのは、安らかな死じゃなかったの? 確かに昔と今では、救うことの定義が変わったって、兄さんから聞いてたけど……。
「諦めたのさ、俺は。だからこの世の今の流れに逆らわない、この道に変えた」
「……どうやら無駄らしいな」
呆れたような大きなため息と一緒に、立ち上がる音がした。ユウシさんのほうだ。
「だが忘れんなよ。お前のやってることは人殺しの手伝いだ! いや、殺しそのものだね! 死から救う方法を知りながら、それを施さない。お前は何十人人を見殺しにしてきた!」
手が震えた。兄さんのことをここまでひどく言うなんて。
「サシ!」
僕は走っていた。突然出てきた僕に、兄さんは驚いたように振り向いた。椅子から立ち上がっていたユウシさんの前に立ち、真正面から見上げて、僕は叫んだ。
「ユウシさん! 兄さんのことをそんなふうに言わないでください! どうしてそんなに責めるんですか? 兄さんは人を救う、一番の仕事をしてるのに! あなた、自分で自分のこと外れ者って言ってましたよね。影の人とも言ってました。なら兄さんの、今求められてる大事な仕事に口を出さないでください! 兄さんを悪い人なんかに……!」
まともな息継ぎもしないで、僕はまくし立てていた。ユウシさんの驚いた顔が、かすんで見える。長距離でも走ったときみたいに、息が荒い。胸が……痛い…………