ウィルフリッド
そのうちダクティルナ家当主が治める地方で、小さな家に暮らす一人の少女が目を覚ました。寝癖のついた髪を片手で撫でつけ、ベッドからもぞもぞと降りる。まだ眠気が取れない。
「セシル、朝ごはんよー」
母の声が聞こえたので、セシルは急いでダイニングキッチンに顔を出した。
「お母さん、おはよ・・・」
ちょうど目玉焼きをフライパンから皿へ移そうと振り返った母は、セシルが寝ぼけ眼を擦るのを見てくすりと笑う。
「先に顔を洗ってきなさいな」
言われた通り顔を洗ってから食卓に着くと、母がテーブルに目玉焼きとトーストを置いてくれた。
「いただきまーす」
セシルは待ちかねたようにトーストを一口かじる。フライパンを洗っていた母が、口を開いた。
「セシル、今日は学校もお休みだから、おつかいを頼まれてくれないかしら。お花屋さんでイキシアを買ってきてちょうだい」
「はーい」
頷くとセシルはトーストをかじりながら窓辺を見やった。昨夜そこに、母が透明な花瓶を置いたのを思い出したのだ。あれに花を生けるのだろう。
どうしてイキシアの花を飾るのかは分かっている。今日はダクティルナ城の“お嬢様”の誕生日なのだ。
「ダクティルナ家の紋章入りの旗とお嬢様の誕生花のイキシアが、きっと町中たくさん飾られるわね」
「お城ではお庭一面に咲いてるんでしょ? そんな綺麗なところでお誕生祝いのパーティだなんて・・・いいなあ、お嬢様」
セシルがうっとりと目を細め、幼いころ何度も夢見た貴族の城のパーティーを思い起こしていると、母がふふっと笑い声を漏らした。どうしたの、と問うと、
「ふふっ・・・セシル、あなた小さい頃はお嬢様に憧れてたわね。毎日お花畑で遊んで過ごせるって思い込んで」
「なんだ、その話ね」
セシルも母につられて笑った。あの頃は、貴族の家で「お嬢様」と呼ばれるのは当主だけだということも、お嬢様は遊ぶ暇なく政務に多忙を極めているということも知らなかった。
そういえば、と母が言う。
「今のお嬢様のお子さんは、セシルと同じお歳だって聞いたわよ」
「えっ、そうなの?」
キュッと音を立てて洗ったフライパンを拭き終えた母は、嬉しそうに微笑んだ。
「男の子だそうだから、お嬢様にはなれないけれど。確かお名前はウィルフリッドといったはずよ」
「ウィルフリッド・・・」
セシルはお城で暮らす少年の様子をあれこれと想像してみた。あのお美しいお嬢様のご子息なら、一体どれほどの美少年なのだろう。
しばらくそんな考えに浸りつつ朝食を済ませたセシルは、花柄の小さなポシェットに財布を入れ、肩から提げた。
「行ってらっしゃい。頼んだわね」
はーい、と返事をしてドアノブを回そうとしたところで、セシルはちらりと母を見上げる。
「ね、お母さん。乗合馬車に乗ってっていい?」
「だめよ。歩いて行けるのにもったいないでしょう」
即答する母に苦笑しながら、がちゃりとドアを開けた。
「そう言うと思った。―――じゃあお母さん、私行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
玄関のドアのそばで、ダクティルナ家の紋章の入った紫の旗がはためいた。