君への手紙
今、 電車の中です。しばらく、田舎で暮らしてみようと思います。電車は長閑な田園地帯を走っています。
電車の中だから、これといってすることもなく、 また話し相手いないから、手紙を書きながら、 時折、 車窓から次々と変わる風景を眺めています。
君は故郷で幸せに暮らしているのだろうか? こんな手紙が今ごろ届くなんて君には迷惑な話しかもしれない。いや、きっとそうだろう。でも、今、なぜか本当のことを君に知って欲しい。ただそれだけのこと。
君を忘れようと思うと、かえって君への思いが募ってしまっている。でも、本当に君に会うことはもう叶わないだろうか。 ……
君と別れた時、 実を言うと、 別れてはまずいとも考えた。 しかし、その頃の僕は君の口うるささに辟易していた。何かにつけて君はうるさく言った。まるで母親のように。それは君の優しさだったのに、僕には、それが疎ましく、また何だか君に縛られているような気がしていらだった。
夢への道も閉ざされ、これといった財産もなく、華やかな都会で惨めな自分を慰める術もなかった。そして君の優しい言葉が、かえって僕の心の傷を深めた……。なぜだろう。本当は優しさに飢えていたはずなのに。本当は、こんなに惨めな自分でも都会で生きる価値が言って欲しかったのに。
何もかもが上手くいかなかった。ある日、それがみんな君のせいのように思えた。そう思うと、なおさら口うるさい君が憎らしく思えた。そのうちに別れたいという思いが募った。でも、君が本当に僕を心配してくれていたことも知っていた。愛しいという気持ちと別れたいという思いのはざまの中で、僕の心は揺れていた。 でも、結果的に君から自由になりたい、その思いがしだいに強まっていた。何もかもうまくいかなかった時期だったから。ただ、自分の口からそれが言い出せなかった。そんな時、 君が故郷に戻ると言ったとき、 僕は安易に同意した。その時の君の寂しそうな顔……僕は今も忘れない。そのときの君の顔にあふれた寂しそうな顔に、僕は何も言葉にすることができなかった。
全て時間が解決してくれると思っていた。 何という思い上がりだったことか! それに女は腐るほどいるとも考えた。 しかし、予想は見事にはずれてしまった。そういえば、 僕が有り金、全部をギャンブルですったとき、 君は『あなたにはギャンブル運がないのよ、さっさと諦めなさい』 と笑いながら諌めた。そんなことも今はとても切なく、そして懐かしく思い出します。
『別れて一年も経つというのに、未だに忘れられないのはおかしい』と君は笑うかもしれない。自分でも滑稽でならない。 まるでピエロになったような気分。 誰かが笑ってくれるなら、それもいい。けれど誰も笑ってくれない。 都会はそんな無情さに溢れています。周りはみんな赤の他人。君がいたなら、きっと笑ってくれるのに。君がいたなら、きっとあれこれと言ってくれるはずなのに。 今になっての君の優しさが心に染みてきます。 このまま東京にいても、 自分の才能を見出せないばかりか、 自分自身にすら存在理由を見出せないまま死んでしまう、そんな恐ろしい夢を何度も見ました。 死の夢です。 ……よしましょう。 こんなくだらない話のために君への手紙を書いているわけではないのですから。
君はもういない。 大切なことはいつも失った後で気づく。 それが愚かな僕です。 滑稽だな。 自分でも、 笑いたい、 笑って、 笑って狂ってみたい。 でも、 鏡に映る自分の顔が歪んでいる。 なぜ、 笑えないのだろう? きっと素直になれないせいだな?
東京を出ることを決意しました。 東京を出れば何もかも忘れることができる、そんな気がしたから。そして、もう一度やり直したい。別れる時に君の言葉を思い出したから。 あれは単なる慰めだったのですか、 それとも心を込めた気持ちなのですか? 『できるなら、もう一度やり直したい』と言ったのは。 今の僕にはとても重要なことです。それが真実なら、 それを支えにして、 どんな明日でも生きていけます。―――――
明美が手紙を受け取ったのは、休日のことだった。
朝起きて、朝食をとって、部屋を掃除して、ほっと一息ついていたら、なじみの郵便屋さんがきた。
「明美ちゃんに手紙だよ」
「どうしたのよ、にこにこして?」
「それは手紙見てからのお楽しみだな。男からだよ」と言って消えた。
裕一からの手紙だった。不思議な胸のときめきを感じた。
母親が「どうしたの?」と聞いた。
「何が?」と聞き返した。
「何がって、今日のあなた変よ。何だが、そわそわして」
「何でもないよ」と言って、急いで自分の部屋に行った。
手紙を読もうか、読まずにすてようかいろいろ考えた末、手紙を開いた。
裕一のことは忘れたはずだった。いや、忘れるために明美は故郷の町に帰ってきたはずだった。しかし叶わなかった。手紙を開いたとき、裕一の顔が鮮やかに浮かんできた。彼と過ごしてきた日々のことも。
手紙を読み終えたとき、明美の眼に一筋の涙が流れた。
窓を開けると、春の清々しい風がなだれ込んできた。
向こう側は緑色に覆われていた。 それも今にも踊るような、 何か、胸がときめきような鮮やかな緑に。