貴方と生きる
私は買ってきた温かい缶珈琲のひとつを彼の頬の側に、もうひとつを両手に握りしめて冷えた指先を温める。
じんわりとした感覚を指先に感じながら私は周りを見回した。
空っぽになって殺風景な部屋にカーテンをしていない窓から日差しが入る。
少し赤っぽい朝の陽ざしに目を細めた。
何もない部屋をもう一度見回して、私は彼の顔を覗き込む。
彼は知らないうちに起きてしまったらしい。
大きく開いた目で天井を凝視している。
「引っ越すんだな」
彼が呟く。
私は答える必要はないだろうなと思いながらも「そうだね」と返した。
彼はゆっくり起き上がった。
彼は缶珈琲を手に取って私に笑いかける。
「ありがとう」って呟く声が優しい。
これから一緒に暮らしてくれなくても、私は貴方のその優しさだけで生きていけるのに。
愛される私になれるのに。
珈琲を一気に飲み干す彼を見ながら私は自分の珈琲の湯気を匂いごと遠くへ吹き消した。
するするっと消えていく。
珈琲の缶を指先ではじいて音を鳴らした彼は立ちあがって、部屋を一度だけ振り返った。
私は彼が畳を踏んで歩いていく音を聞きながら珈琲を静かに飲み終える。
彼が玄関で靴を履いている。
私はまだここを離れたくなくて、さっきまで彼が横になっていたところに座り込んだ。
そのままそこに倒れ込む。
彼と同じところにうつ伏せに倒れ込むと、畳の匂いに混じって彼の匂いがした。
私は畳に柔らかく唇を付けると、体を起こす。
朝の光が少しだけ黄色を纏って私の目に入ってきた。
外から彼の車のエンジン音。
私は缶を持って玄関に向かう。
外に出ると彼は車から私に手を振っている。
振り返る必要はなかった。
End