鎮魂歌
屋上で春風を受けながら、葵が言った。
その目には涙が浮かんでいて、翔はこの繊細な友人の心中を察する。
「歌を歌って。可哀想なあの子の為に」
二年前、葵は自宅近くの公園で小さな捨て猫を見つけた。まだ赤ん坊だったけれど、その子猫はダンボールの中で震えていた。
葵の家は生憎マンションで、ペットは禁止されている。だからその日は無視をして帰宅したものの、次の日もその次の日も、その子猫は公園の片隅で震えていた。その上ミルクもなく、子猫は日に日に衰弱してゆくのであった。
四日目の夕方、葵は子猫に買ってきた猫用のミルクを与えた。
子猫の世話をする事によって、子猫はよそで人に迷惑をかけるかもしれないし、糞尿の被害だって出るだろう。その全てに責任をもてない限りは、この子猫の世話をする事はいけない事だと分かっていた。
けれど、そのまま放っておけば子猫は死んでしまうのではないかと思った。
葵はそれから毎日子猫の世話をして、一ヶ月、二ヶ月、半年もすれば子猫はいつの間にか立派に育っていた。もう一人でも生きてゆける。そう思ったけれど、葵を見つけては擦り寄ってくる猫の世話を止める事はできなかった。
しかし一年もたった頃、困った事が起こった。猫が妊娠したのだ。
葵は戸惑った。こうなってしまったらもう、自分ではどうする事もできない。このまま猫が子猫を産み、その子猫の世話をする事ができたとして、子猫たち全てに去勢、避妊手術を施すお金は手元にはない。そうなるとまた子猫が子猫を産み、その子猫がまた子猫を産み――。公園は野良猫だらけになってしまうではないか。
ぞっとした。
もしかしたら自分はとんでもない事をしてしまったのではないか。
けれど、でも、あの時自分の手がなければ、猫は死んでいたかもしれないのだ。
「私は浅はかだった。確かに私は浅はかだった」
いけない事だと分かっていた。確かに分かっていた筈なのに。
「私の所為であの子は死ぬんだ!」
親に相談したときにはすでに手遅れだった。猫は子猫を四匹も産み、公園には子猫たちの声が響いていた。
父は呆れて、母は怒った。ウチでは飼えない。どうするんだと責められた。
どうしようもない事は葵が一番よく分かっていた。叱られる事も覚悟で相談した。しかし母が保健所に電話すると言った時、葵は年甲斐もなく声を上げて泣いて駄々をこねた。
それを受けて、母は知り合いのつてを辿って地域の動物愛護ボランティアに連絡を取った。これで駄目なら諦めろと言われた。
ボランティアに引き渡す時、その人は言った。
子猫の里親は見つかるかもしれないけれど、親猫は難しいかもしれない。ウチでは里親の見つからない猫の世話は半年しかできないから、それを過ぎたら保健所に引き渡す事になる。
だから覚悟しておけ、と言われて、葵はぼろぼろ泣きながら頷いた。
そして今日、親猫の里親が見つからず保健所に引き渡したと聞いた。
「子猫のときにボランティアの人に頼めば、こんな事にならなかったかもしれないのに!」
泣きながら自分を責める葵を、翔は優しく包み込むように抱きしめた。そうすることしかできなかった。今はどんな言葉も気休めにもならないような気がした。
葵は悪くない、とは言えなかった。
確かに葵の言うとおり、子猫が子猫のうちに手を打てば今頃は誰か優しい里親の下で幸せに暮らしていたかもしれない。
けれどそうして葵を責める気にもなれなかった。
今、誰よりも傷ついているのは葵なのだと思った。
自分の浅はかさ、幼さ、そういったものを責めて、責めて、責めて。葵の心はすでにボロボロだった。
「あの子はどう思うだろう。無責任に捨てられ、無責任に世話をされ、いたずらに人間を信用するよう仕向けられて、最後には人間によって殺されるんだ。
あの子は、あの子は――…!」
「もうやめて!」
翔は悲痛に叫んだ。
一つの命の問題に向き合う勇気をもてなかったのかもしれない。けれどもう、それ以上は聞きたくはなかった。耐えられないと思った。
やがて、翔は歌を歌いだした。
何を歌えば良いのかも分からなかったけれど、音楽の授業で習った外国の鎮魂歌を歌った。せめてその魂が天国へいけるようにと、願う事しかできなかった。