少年の幻
時間にしてみれば些細な間、一秒にも満たなかっただろう。それでもその短い時間の中、少年はしかと目に焼き付けた。
夏の茹だるような昼下がりだった。
その暑さは遠くの視界を不確かなものに変え、まるで彼岸でも見ているかのような錯覚を与えた。蝉はその姿を現さないままに、夏を過ごす者たちの中へと入り込んだ。
少年は家路を急いでいた。理由が特にあったわけではなかった。が、少年は胸の奥底でくすぶっている、言いようのない不安のために歩く調子を速めていた。
何が自分を不安にさせているのかさえ分からない。それさえ分かれば、きっと解放されるだろうに。もし少年に心中を言葉にできるだけの能力が備わっていたならば、きっとこう考えただろう。
こうしたことは何度もあった。しかし何かが起こったことは一度もない。しかし何かが起こってからでは遅いということを少年は直感的に知っていた。だからこの発作が始まると少年はただちに家路に就いた。
言葉で伝えられるものでは決してなかった。周囲の人間はそんな彼に、『頭のおかしい子』というレッテルを張った。それを剥がすことを少年はとうに諦め、また無意味さを悟っていた。
途中、公園の横を通りかかった。日に肌を焼かれながらも子供らは各々の遊びを享受していた。その者らの声は遠く、少年の耳に届くころには蝉の声によって重ねられてしまっていた。公園の入口を跨ぐことができたならば、きっと聞き届けることができただろう。その公園の中には境界がひとつできていた。それは日向と、日陰であった。日向を内とするならば、その外で母らの談笑している姿が見て取れた。
少年はそれらを一瞥すると、また向きを変えて歩き出した。羨ましいとも思わなかったし、妬ましいとも思わなかった。他人に思いを馳せているような場合ではない、という一種の使命感が少年の心にあるだけだった。
額からの汗が頬を伝わり、顎から落ちた。落ちた分だけ唾を飲み込んだ。しかしそれで体を潤せるはずがなく、少年の喉は水分を求め熱を持った。また熱だけで終わらず、痛みさえあった。少年のそばを自販機が通り過ぎたが目もくれなかった。少年のポケットにあるのはガラクタばかりだったのだ。いろいろと想像を掻き立ててくれるガラクタだったが、今回に限り、ガラクタはガラクタのまま、空を飛ばなければ、地も走らなかった。
坂に差しかかり、少年はいよいよ疲弊した。流れる汗は滝のようであり、吐く息は洞を通る風のように不気味な音を喉から発した。強靭な意志にて強行してきた少年だったが、その意志もここまでかと思えた。上り坂で、速度を落とさぬようにとさらに気持ちを早めたが、その足音は不確かになり、右へ左へふらふらと揺れるようになった。息遣いはなおも荒く、見るものは流れていくアスファルトだけになった。
しかし少年の意志は折れず、朦朧としながらもついに上り坂は終わりとなった。
一息つくために顔を上げた。最初瞳に映ったのは坂の下の街並みであった。藍や赤、黒といった色をしたはずの瓦は陽に差され白い光を発し、少年の目をわずかばかり眩ませた。その街並みの遠くにひときわ大きな山が二つ、連なっていた。奥に見えるのは海だった。さらに視線を上げると空があった。
少しばかり風通しのよいためか、風が一陣、ごうと吹いた。それに少年は気持ちのよさを覚えたが、また時を同じくして、別の感情を覚えることとなった。風を感じるとともに大きな積乱雲を見つけたのだ。山の奥、海の方より、大きく、大きく、二つの山を足したよりもさらに大きな積乱雲が、山を通り越してみてとれた。空の青さの中に浮かんだそれは、見る者が違えば壮大さを以て答えただろう。しかし少年が見ればまさに入道だった。それも大入道である。不気味で、凶兆以外の何物でもなかった。
それを発見した少年は何が何だかわからなくなった。家だ、とにかく家が危ないのだ。そう思うと体の疲弊は雲散した。というよりも忘れ去られ、少年は風のように坂を下った。途中で何度か転びそうになりながらも、少年は前だけを見続けた。下り坂で走ると危ないのだ。加速度はやがて本人の手に負えぬ域に達し、足の回転は追いつかなくなる。しかし、今はそれどころではないのだ。リスクという概念はとうに置き去りにされ、少年はただただ走り、ついには何事もなく坂を下りきってしまった。
少年はやり遂げた。だがそれは終わりではないのだ。置いてきたはずの疲労は糸でも付いていたかのように巻き戻され、いつの間にか体へと戻ってきてしまった。乾いた汗はぶり返し、喉はさらに水を欲するようになった。
家が、家がと繰り返すたびに体は重くなり、ついに少年は歩を止めずにはいられなくなった。手を膝に屈し、肩で息をつき、心は何も考えなくなった。頭には大きな頭痛が残った。
しかしそれでもと、走れぬならば、せめて歩けばいいだろうと、少年は思った。数度大きな呼吸を繰り返すと、おぼろな足取りで歩き始めた。
歩き始めると不思議なもので、呼吸の粗はとれ、思考も明瞭になってきた。家まではあと少しであった。ここまでくれば、残りの距離はまた走れるだろうと、数歩の後、少年はまた走り始めた。今度は確かな足取りだった。考えが冷静なため、力量配分もできていた。家まではやはりあと少しである。
その距離の途中、不意に視線を奪われた。
それは真っ白い人だと思った。女性だった。実際に白かったのは着ているワンピースだけだったが、その人の肌も十分蒼白だったのだ。黒髪は腰よりも長く、そしてきれいだと思った。その人はベランダにいた。真っ白なベランダだった。というよりも家一面が真っ白だった。壁材、屋根から、少しだけ覗く家の中までも真っ白だった。一階部は、高いそしてやはり真っ白な塀で見えなかった。そこから顔を覗かせるように生えている木だけは、浮き立つように青々しかった。その家は、いつもは空き家だと少年は記憶していたが、そうではないと言い切れるほどに、女性はその家に即していた。その人の背後、開け放たれた窓からはカーテンが風になびいていた。
少年は走りながら、それを見続けた。
白い女性はカーテンと同じようになびく髪に手を添えて、遠くを見ていた。感情はなかっただろう。それがひどく不健康そうに見えた。あまりにも凝視したためだろうか、女性は目線を下げ、そして少年と目を合わせた。
少年は湧き上がるような気恥ずかしさを覚え、そして視線をそらしてしまった。
どたんという音を聞いたのはその直後だった。何か大きなものが落ちたような音だった。少年は驚いて、音のした方へと見遣った。いや見ようとしたが、別のところへと視線をやった。それはかの女性がいたところである。
さっきまでそこにいたはずの女性は消えており、そして風に揺れるカーテンさえもそこになかった。
それでも家は、何事もなく当然のようにそこにあった。
少年はそれまでの不安を塗り替えながらも、真っ先に家に帰った。
少年の見たものは幻だった。
突き詰めればそれだけのことだろう。
しかしあれは本当に幻だったのか。一巡してその回顧は袋小路に迷い込む。
堂々巡りは今もまだ続いている。