仕事を替えた理由
彼が東京からこのA市に引っ越してきてから七年が過ぎた。東京にいたときは、まだ夢があった。何もかもが輝いて見えた。しかし、今は夢のないサラリーマンに過ぎない。のみならず生き甲斐もなかった。
高校時代、優秀なラクビーの選手だった。その実力がかわれて一流といわれる会社に入った。仕事の能力より、ラクビーの実力が買われたのである。くる日もくる日も練習した。不幸は二十一の時に起こった。喧嘩で足を怪我したのである。普通の生活を送るには不自由はなかったが、ラクビー選手としては失格だった。彼に非はなかったが、社名が汚されたということでA市に左遷させられた。
彼の部屋は、町はずれの古びたアパートの二階にあった。西日が射す窓から街を一望できた。休日ともなれば、ぼんやりとタバコをくわえながら、一日中、街を眺めていた。
彼は既にこの世を諦めていたのかもしれない。休日ばかりでなく、毎日、いたずらに時を過ごした。酒はあまり飲める方ではなかったが、毎日、飲み歩いた。退屈な夜を忘れるために酒を飲むしかなかった。ネオンがきらめき、偽りに満ちた夜の街を彼は愛した。愛想笑いをしながら、下品な話に相槌を打つ酒場の女たちを愛した。
彼の夢はラクビーの選手になり日本一になることだった。それが突然の喧嘩によるけがにより夢が壊れてしまった。ラクビー選手以外の夢はなかった。夢が破れて以来、永続する時は切れ、時間は単なる瞬間の繰り返しにすぎなくなってしまった。その一瞬、一瞬を女と酒で楽しむ。いつか、それで十分だと思うようになった。だが、社会に出て十年が過ぎようとしていたとき、何か、言いようのない疲労感を覚えるようになった。日を追うごとに、それがだんだんと重くなり、やがて飲み歩くのが億劫になってしまった。
ある日の日曜日のことである。
起きてタバコを吸おうとしたら、切らしていたので近くのたばこ屋に行った。出てきたのは、中学校くらいの少女だった。いや、もう高校生かもしれない。足がすらりと延びた可愛い少女だった。
「マルイドセブンをくれないか」と彼が言うと、
「マイルドセブンですね」と繰り返した。彼は頷いた。その声に何かしら懐かしいものを感じた。
「君は前によく店番していた子?」と尋ねると、
「そうです」と微笑んだ。
以前、彼はよくこの店にタバコを買いにきた。その時、少女がよく店番をしていて、よく話をした。その頃はまだ背が低くて、どこから見ても子供だった。それが今では、どこか女の匂いを感じさせるまでになった。彼は時間の針を逆さに回すように過去を回想した。あれからいったい時が過ぎたのかと。
「はい、タバコ」という少女の一言で、彼は我にかえった。
慌てて帰ろうとすると、背後から「お釣り」と声がした。
振り返り、手を出した。少女の手が触れた。ほんの一瞬だったが、やわらかくて暖かい温もりが伝わってきた。それは同時に懐かしい感触だった。どこかで忘れてしまった懐かしい温もりだった。彼が相手してきた飲み屋の女や娼婦の手とどこか違っていた。
「何年生になった?」
「高校三年生」
「え! もう?」
「もうじゃないよ」
「そう……君は卒業したら何になるのかね?」
「看護婦よ」
彼女の瞳は輝いてみえた。
その夜、彼はぼんやりとテレビを観ていたら、電話がかかってきた。ホステスの靖子からだった。
「どうしたの?」
「何が?」
「何がって……最近、全然、来てくれないじゃないの?」
「気分が悪いんだ」
「風邪でも引いたの?」
「そんなじゃない」
「じゃ……分かった彼女がいるのね、図星でしょ!」
電話を切った。靖子が自分に心を寄せていることは、分かっていた。彼女は嫌いじゃなかった。肌を重ねたこともある。でも、今ではどうでも良くなってしまった。あの少女の手に触れてから、もう会う気さえ湧かなくなってしまった。なぜだろう……。
次の日の朝、彼はバス停でバスを待っていた。
バスはなかなか来ない。待っている間に汗が流れてきた。彼はハンカチを取り出して、汗を拭いた。その日は強い日射しが朝から照りつけていたのである。
背後から呼ぶような声がしたが、振り返ることはしなかった。気のせいだと思ったから。すると軽く肩を叩かれた。振り返ると、タバコ屋の少女だった。彼女は軽く会釈した。
「これから会社ですか?」
「ああ」
「随分、早いのね。その理由、分かるわ」
「え?」
「昨日も飲みに行かなかった。それで今朝早く目覚めた。図星でしょ?」
彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔した。それを見て、少女は微笑んだ。
「あ! バスが来た」
そういって少女は乗り込んだ。
「おじさんは乗らないの?」
彼は慌てて乗り込んだ。
バスの中は空いていた。いつも乗るバスはぎゅうぎゅう詰めなのに、三十分早いだけで座れるほど空いている。
「ここが空いているよ」
「君が座りなさい」
「私は若いから立っているわ」
彼は反論しなかった。
彼はずっと少女を観ていた。バスが揺れる度に少女の胸が揺れたような気がした。しだいに目のやり場に困り、窓の外を眺めていた。
「もう、酒を止めたの?」と少女が聞いた。
「どうして、そんなことを知っているんだ」
「おじさんはいつも、夜十二時頃、下手な歌を歌って店の前を通り過ぎるけど、昨日はなかった」
「確かにそうだ」と言った。
バスは三つ目の停車所に来たとき、少女は降りた。
少女を見送りながら、時間が早く過ぎていくと彼は思った。それは夢がないだと思った。少女のように夢があったなら……。人生を捨てるには早すぎる。そうだ、何かを探そう。仕事を替えようと思った。
また夏が過ぎようとしている。風で揺れているポプラ並木の向こう側には、もう秋を予感させるような、清んだ青い空が広がっている。