火だけ消せない消火器
スプレーには『消可器』と書かれていた。
次の日の月曜日、マサシは会社に出かけた。営業の職についていたマサシは、同期のライバルである小西にいつも見下されていた。
「お前、また中間だったんだってな。俺は相変わらずよ。ま、頑張りな」
マサシの会社では営業成績が月ごとに発表され、それを毎回表彰されるのだ。もちろんその分、ボーナスも出る。毎度毎度トップ賞をかっさらっていく小西はマサシにとってわずらわしい存在だった。
「小西君、もうすぐ成績発表だね。期待してるよ」
部長が小西の肩を叩く。
「小西先輩、どうしてそんなに仕事ができるんですか?」
女子社員が一斉に小西を見る。そんな声に小西はこう言った。
「いやあ、たまたまが続いただけだよ。僕なんて本当は大したことないんだ」
け、嘘をつけ。俺の前では性格が豹変するくせに。
実際に小西はマサシだけには態度が悪かった。新入社員の時、一度だけマサシが運良くトップ賞をとったことがあり、その時はサラブレッドのような印象の小西を差し置いてマサシがちやほやされたのである。それが相当悔しかったのだろう。
そんな小西にマサシは背後から近づいていった。
「頑張れよ。応援してるぜ」
と声をかけてスプレーをひと吹き。すると部長が首を捻った。
「おや、小西君。今日は具合が悪いのかね?」
女子社員も静かになった。
「なんだかいつもと違いますよ?」
マサシはヒヒヒと笑った。これは本当に効く。マサシは『消華器』と書かれたスプレーをしみじみと眺めた。
マサシはとてもいい気分で毎日を過ごした。
『消香器』と書けば、街でうっとくるようなキツイ香水の匂いが飛び、『消歌器』と書けば、友人の長すぎるカラオケが止んだ。
マサシは煙草に火をつけて、ソファーにごろりと横になった。
「これさえあれば、毎日がハッピーだぜ」
いい気持ちになったマサシは煙草を灰皿に置いた。そしてそのまま眠りこけてしまった。
目を醒ましたのは、異臭が鼻を突いたからだ。
「なんだ……」
マサシはぎょっとなった。灰皿周辺が燃えている。煙草だ!マサシは焦った。そしてスプレーを探した。スプレーとペンとボード消しはソファーに転がっていた。マサシはそこに書かれている字を消した。そして『消火器』と書き込んだ。
「消えろ、消えろー!」
マサシはどんどん激しくなる火に何度もスプレーを吹きかけた。しかし、パニックになっているマサシには、あの日のセールスマンの言葉も水を使うということも頭になかった。
そしてもう取り返しがつかなくなった時、マサシはようやく外に出た。
マンションは大騒ぎになっていた。住民は逃げ惑っている。そんな中、こんな叫びが聞こえた。
「うちがー!うちがー!うちが燃えるー!」
となりのおばあさんだった。マサシの心臓は激しすぎるほど高鳴った。そして震える手でスプレーにこう書いた。それを煙を出す部屋に向かって勢いよく吹きつけた。
するとそこに四角い空間が出来た。
マサシは呆然とした。火事は収まった。だがまだ正気を取り戻せていない。
「なんと書いたのですか?」
後ろから聞き覚えのある声がした。それはあの日のセールスマンだった。マサシはスプレーを見せた。
「『消家器』と書いてしまったんですね」
「ああ……」
マサシは住む家を失った。そして何より、この空洞をどうすればよいのか分からなかった。すると、セールスマンは放心状態のマサシからスプレーを取り上げ、こう言った。
「火事の時は『消家器』ではなく、こう書けばよいのです」
文字を書き込んだスプレーを見せると、マサシは
「ああ……なるほど……」
と言ってゆっくりうなずいた。そのあと、セールスマンは『消禍器』と書かれたスプレーをマサシに吹きかけた。
作品名:火だけ消せない消火器 作家名:ひまわり