午前12時には食べないで
同時にそれは潤子ともとれる。愛しいもの、商売道具。だから例えた。
「なあ」
「なに」
「そろそろ名前で呼んでくれても」
「呼びたいと思ったらそんなの、すぐにでも呼ぶわよ」
何度この返答を聞いただろうか。声色を音色のように例えるならそうだ、黒。全てを消し去る色。その上に煙草の煙を重ねるとよく映えた。でも好きじゃない。
そう言いつつ、彼女は一度も名前で呼んでくれた事はなかった。俺の事を示す、固有名詞。自分の名前の響きが好きなわけではない、だがやはり恋人ともなれば呼ばれて嬉しくない訳がない訳で。
潤子、と呼ばなくなるときっと不機嫌になるくせにとは思いつつ不機嫌な顔など見たくないので俺は呼び続ける。一方の潤子はねえ、とかムーチョ、とかその場で思いついたように呼ぶ。前者は二人の時、後者は仕事場でそう呼ぶことが多いからだ。
「まあ、俺は呼んでくれるまで待つよ」
「それって、私がずっと呼ばなかったらどうするの?」
とても嬉しそうだった。笑うというよりニヤリとした表情の一部である煙草の灰が今にも落ちそうだ。目とあごで指摘すると順子は最後の一吸いをし、重いだけでちっとも綺麗で豪華に見えないカッティングガラスの灰皿に煙草を押し付けた。…もう、いいだろうか。
「待つよ」
「ふうん、じゃあ呼んであげない」
そんな仕打ちを受けても自身が目を細めて少し口角が上げてしまうのは笑顔になっている時だ、と小岩沢は自覚している。
作品名:午前12時には食べないで 作家名:灯子