笑う女
ある年のことである。夏の終わり、仕事でN市に行った。
宿泊先のホテルの近くの公園での出来事だった。ベンチで休んでいたら、隣に若い女が座った。
その若い女は突然笑い出した。頭でもおかしいのだろうか、ちらっと見た。そうではなかった。寧ろ賢そうな顔をしていた。身だしなみも普通だ。落ち着いた雰囲気のせいかもしれないが、二十代後半のように見えた。
今度は泣き崩れるように笑った。こんなふうに、馬鹿みたいに大笑いする女の姿を見たことがなかったので、驚いた。どう見ても変だった。
ふいに笑うのを止めたかと思うと、脇においてあった鞄から英語の参考書とノートを取り出した。大学の受験生か? とてもそんなふうには見えないが。それとも大学生か?
よく見ると、彼女の履いているサンダルには、飾りがたくさんついていた。その色合いが実に品があって美しかった。足も細くて美しかった。どこかのいいところのお嬢さんのように見えた。
開いているノートを見えた。英語が書いてあった。走り書きのようだが、美しい字体だ。少し隙間がありすぎて、ノートを無駄使いしている。
「何を見ているの?」と彼女が突然聞いた。
「いえ、別に」という言う前に、
彼女は「頭がおかしいと思っているでしょ? なぜ、笑うかって? 決まっているでしょ、おかしいからよ」と言ってまた笑った。
まるで骨のない軟体動物のように、しなやかに大きく体を動かし笑う。まるで奇妙な一人芝居を見ているようだった。
「私は夢と同時に恋人も失ってしまったの。これが笑わずにはいられない理由なの。おかしい? 本当は、私は優等生じゃないの。それなのに、今まで演じていた。教師の採用試験に落ちて、大切な恋も失ってしまったの。もう今までどおりの自分を演じられない。そう、私はいつも演じていた。優等生の役を。母親の期待に応えるために。……何をやっても中途半端なのに。もう気が狂いそう。……でも、もうだめ。終わりだわ。ここで終わりにしたい……何を見ているの? 私の顔に何かついている? そんなにじろじろ見ないで……このメールを見てよ」と携帯メールを見せてくれた。
彼女が見せてくれたのは「さようなら!」というたった一行のメールだった。
「3年間付き合ったのに、たった一言“さよなら”だって、馬鹿にしていると思うでしょ?私は"捨てないで"と言えなかった。好きなだけ弄んで飽きたら、今度は別の女と一緒になると言うの。よりによって親友だと思っていた女と。みんなで私を騙していたの。私が彼に捧げた三年間は何だったのかしら?」と言ってまた笑った。
あまり笑うので、何だかばかされた気分になり、その場を去ろうとしたら、
「もう少し私の話を聞いて、お願い!」と懇願されたが、
「もう暗くなってきた。おしまいにしよう」と言ったら、
「そうね」と彼女は微笑んだ。
数日後、海の見えるホテルで新聞を読んでいたら、若い女性の溺死体が浮かんだという記事を見たとき、公園のベンチで大笑いした彼女の顔が思わず浮かんだ。無論、彼女かどうかは分からないが。