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独り言

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『独り言』

冬のバスの中のことです。
若い女が、まるで、もう一人誰かがいるかのように喋っているのです。その様を見ていると、もう一人誰かがいるかのような錯覚を感じました。

彼女はまともなのでしょうか? それとも気が狂っているのでしょうか? 恰好はどう見ても、普通、いや、むしろ、どこかの良いお嬢さんを思わせるような良いものを着ています。化粧もまともです。うっすらと塗った口紅のせいで、まるで花のようにきれいな口をしています。眼はどこか虚空をみているような雰囲気がしますが、顔つきもいたって正常、決して、気が狂っているようには思えません。

でも、本当にもう一人誰かがいるかのように喋っているのです。
不思議です。じっと、その様を見ていると、眼には見えないけど、もう一人誰かがいるかのように思えてくるのです。
「あと、三年の辛抱だから」と冷気で曇った窓ガラスに“三年”と軽やかに書きました。
「そしたら、女優になるのよ」と言うと、楽しそうに歌い始めました。
きれいな声です。まるで天使のようです。
そうか、女優の卵なんだ、演じているんだ。でも、演じているなら、どこか嘘っぽさがあるはずなのです。ところが、不自然なところがないのです。不思議です。
「でもね、…」と突然歌うのを止め、沈んだ声で喋り始めした。顔を見ると、今にも泣き出しそうです。やがて、その眼に薄らと涙が浮かびました。
演じてなんかいない。その涙を見てそう思えました。
「無理なのよ、恵子…」
恵子とは自分なのでしょうか? 
人間は、自分を限界まで追いつめてしまうと、それまで自分を支えてきた糸が切れてしまうことがあります。おそらく、彼女もそういった状況なのかもしれません。糸が切れた凧のように、自意識を制御できないのでしょうか?  あるいは、ある瞬間に自分の中に別の人間が現われるのでしょうか?

激しく降る雪のせいで、なかなか進まないバスの中での出来事でした。








作品名:独り言 作家名:楡井英夫