ピアノの恋
それは小学生の時の他愛も無い休み時間の会話。誰が好きかという話になって。
「ショウタはハルカだろ?」
「え?」
僕には当然の様に声が掛かって、驚いた。
「なんで? 考えたことも無かった」
「嘘ばっかり。いつも一緒にいるし、見てるだろ」
周りは囃したてる。でも僕は本当にそんなこと思ってはいなかった。
ハルカは幼馴染で、クラスもずっと一緒で委員会とかも同じだから一緒にいる機会は多いけれども。
授業中にさっき言われたことを考えてみる。ハルカは斜め前に座っている。くせっ毛でパーマを当てた様に波打った髪は肩に掛かる位まで伸びていて丸みを帯びた頬や長い睫毛や可愛いとは思う。けれどこれが皆の言う『好き』なのかどうかは分からなかった。違うと思う。
先生にあてられたけれど答えられなくて皆に笑われた。ハルカも笑っていた。
「ショウタ君、あのね」
なんの陰謀かその日のごみ出し当番は僕とハルカだった。二人で大きなゴミ袋を持って校舎裏の人気のない焼却場まで運ぶ。
「ハルカ、小さい頃に引っ越してきたでしょ?」
「うん」
「前いた街でね、聴いた音楽でね、忘れられないのがあるの。誰にも言ってないんだけどね、ずっとずっと小さかった時の話よ」
「ふーん」
二人で高い位置にある焼却場の入口にゴミ袋を押し込む。
「なんて曲?」
「分かんないの。でもね、今でも耳の奥でその音楽は流れてるの」
そう言ってハルカは眼を閉じてその音を聴く素振りを見せる。
「ハルカ、そのピアノを弾いてた人が好きなんだ。また会えるかな」
そう言ったハルカの頬は少し上気していた。それは子ども特有の言動であったのであろうけど、僕はその時失恋したのだと思った。恋にすらなっていなかったのに。
「ハルカちゃんはショウタ君が好きなんでしょう?」
教室に入ろうとしたとき女子の話し声が聞こえて僕は足を止めた。
「何で?」
「皆言ってるよ。ショウタ君はハルカちゃんが好きなんだって」
「そんなの困るよ」
泣きそうになったハルカの声がする。
「フられたな」
後から来た男子が僕の肩に手を乗せて慰めるように言った。
「そんなんじゃないって言ってるだろ」
「おう、失恋したショウタ君じゃないか!」
教室の中でも入りそびれていた僕に気付いた男子が声を上げる。教室の中にあった視線が僕に集まり、僕の顔は赤くなった。ハルカは泣いていた。
中学高校と一緒だったが僕とハルカは自然に男子と女子で分かれて行って、以前の様に親しく話すことも無くなっていた。僕には彼女はできなかったが、ハルカは中学の時から音楽部のピアノを弾く男子と付き合っているらしかった。僕も何度か二人でいる所を見たことがあった。
その時は文化祭の準備で出た大量のごみを二人で捨てに行っていた時だった。
「ねぇ」
もう互いに名前を呼ぶことも無くなっていた。かと言って名字で呼ぶのもおかしい気がしてなんとなく避けてしまう。
「何」
「小学生の頃、前にいた街で聴いた曲が耳に残ってるって話してたけど、何の曲だったの?」
僕はハルカが付いてきていないのに気付いて振り向くとハルカは数歩遅れた所で絶句していた。
「……まだそんなこと覚えてたの」
「さっき思い出した」
ハルカは少し怒ったように頬を染めてそっぽを向いた。アイロンを当てた真っすぐな髪を肘近くまで伸ばしていた。
「もう昔のことでしょう」
ハルカは強い口調で言うと一人で先に歩き出すと無言でゴミ置き場にゴミを放り込む。訊いちゃいけないことだったのかな、と僕は話しかけさせない雰囲気で数歩先を歩くハルカを気まずく見る。
「……嘘よ」
ハルカは急に立ち止まると振り返らないまま呟いた。
「何が?」
ハルカは黙ったまま下を向いていた。握った拳が震えていたので僕は殴られるのかな、と思った。
「ピアノの話よ!」
振り向いたハルカは少し涙目だった。
「あの話をした時だって、もう曲なんてすっかり忘れてたわよ! ピアノだったか、誰が弾いてたかも怪しいし……だってあんなに小さい時の話なんだから覚えてる訳ないじゃない!」
それだけ言うとハルカは走り去った。僕は独り取り残されて、また失恋したな、と思った。恋にもなっていなかったけど。
小学生の僕は、ハルカが夢中になって何年も耳に残る様な音楽とはどのようなものだろうと色々と空想したのだった。