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雨宿り

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『雨宿り』

もう二十年も前の話である。
久しぶりの休暇を金沢で過ごすために、最終の列車で行った。金沢に着いたときはもう夜だった。ホテルをチェックインすると、すぐに横になった。
 翌朝、ゆっくりと起きた。新聞を読みながら、遅い朝食をとった後、街に出た。
 
古都は桜が満開だった。花の香りに誘われて、気ままに歩いた。桜と町並みをみているうち、懐かしさと同時に胸を締め付けるような悲しさが込み上げてきた。五年前まで金沢に住んでいたのだ。それも三年間も。 立ち止まって考えた。一体、何を得て、何を失ったのか? 答えは簡単には出ないと思ったとき、また歩き始めた。
 しばらくして、両側を桜の古木で覆われた坂道に来た。空が桜でおおわれているため、ほんのわずかしか日が差さない。桜を眺め、昔を思い出し、ゆっくりと坂を登った。
風もないのに、鮮やかな色をした小さな花びらが惜しげもなく落ちてきている。じっと眺めているうちに、それがまるで時間の落下のように思えてくる。同時に花びらだけでなく全てが落ちる運命にあると思った。この身も、どこかへ落ちて行く。

気づくと、街外れまで来てしまっていた。
時計を見た。もう午後三時、四時間近く歩いていた。

突然、雨になった。初めはぱらぱらと降っていたが、そのうち雨脚が早くなってきた。慌てて走り雨宿り先を探した。幸い、近くの公園内にある大きな木を見つけ、そこで雨宿りをすることにした。道ゆく者は急ぎ足で通り過ぎていく。雨宿りをする者はいない。みな、行く先があるが、雨宿りをする余裕など無いのだろうと勝手に思った。行く先がこれと決まっていない自分には、雨が止むのを待つ余裕が十分にあった。たばこの火をつけ、ぼんやりとあたりを眺めた。
そこへ和服姿の若い女が来て、同じ木の下で雨宿りをはじめた。視線があったので、慌ててタバコの火を消した。女は心持ち笑みを浮かべ軽く会釈した。女の体の線が和服を通じてはっきりと分かった。色っぽかった。和服は女をしとやかな女に仕立てる。それを見る男は、自分が男であることを感じさせる。
女の香水であろう。甘い香りがした。さりげなく女を見た。面長の顔立ちをした美人であった。目元が優しそうで、どこか高貴な感じがした。雨にかなり打たれたらしく髪が濡れていた。
「止みそうもないですね」と声をかけてきた。
「そうですね」と答えた。
それから会話が始まった。花のことなど、とりとめのない話をした後、
「つかぬことを伺いますが、誰かと待ち合わせですか?」とずっと気になったことを聞いた。
女は軽くにうなずいた。控えめそうないい女に思えた。
「あなたは旅行客?」
「そうですが」
「旅は良いわね。私は金沢から出たことはないの」と女は呟いた。
 雨が小降りになった。
「もう少しで止みますね」と言うと女はうなずいた。
「また会えるといいわね」と謎めいたことを言った。まるで少年の頃、片思いしたときのように胸がときめいた。
二人とも沈黙した。雨があたりを打つ音が妙に耳に響いた。
しばらくして一台の車が止まった。すると、女は軽く会釈して車に乗り込んだ。車は滑るように雨の中に消えた。女の残した甘い香りだけがいつまでも残った。……もう二十年も前の記憶なのだが、なぜか鮮やかに覚えている。




作品名:雨宿り 作家名:楡井英夫