桜、旅たちの朝
桜の季節になると、大学に旅立つ日の朝を思い出さずにはいらない。遠く過ぎ去った、あの旅立ちの朝を。
十九の春のことである。北国にもようやく春が来た。桜があちこちで咲き始めた。遠く離れた大学に入学するために旅立つ日が来た。まだ朝日が昇ったばかりの時刻に母と一緒に家を出た。
隣村の駅まで見送るために母がついてきたのだが、途中あまり会話らしい会話はしなかった。歩いて三十分ほどで駅に着いた。早朝のせいか、駅の中は誰もいなかった。中は外と同じくらいひんやりとしていた。二人とも木製のベンチに座り、列車が来るのを待った。
実に静かだった。駅舎の中には、古い時計があって、カチカチと音を立てる。その音が妙に耳に響いた。ふと窓に目をやると、駅舎のそばの桜の木があって満開であることに気づいた。青空を背にして、まるで扇を開いたような形をしていて、美しい一幅の絵を見るようであった。母の視線も同じ方に向いていた。
花びらが風もないのに散っていた。ひらひらと。じっと見ていると、時計の音と花びらの落下が妙に符合しているように思えてきた。さらに耳を済ませた。ひょっとしたら、桜の落下する音さえ聞こえるような気がしたから。けれど、聞こえてくるのは時計の音ばかり。
母の方を見た。話好きの母は何か言いたそうだったが、何も言わなかった。今思えば、夢にあふれた息子の旅たちをつまらない小言や忠告で嫌な思いをさせたくなかったのであろう。ただ微笑みながら、列車が来るのを一緒に待っていた。
ただ待つことの時間の長さを初めて知ったような気がする。新しい土地への不安、別れの悲しみ、新しい出会いの期待、そういった色んなものが胸に渦巻いていた。
母はどうだろう。自分が母の年齢に近づいて思ったのは、母は未来の時ではなく、一緒に暮らした日々を思い出していたのかもしれないということだ。
息子の不安を察したのか、母は「大丈夫だ。何も心配ないよ」と呟いた。あらためて母をみると、微笑んでいた。が、その笑顔の裏側に、寂しそうな、もう一つ顔があることは、子供心にも分かった。分かっても、「また夏休みには戻って来る」とか、気の利いたことは何も言えなかった。
列車の汽笛が鳴った。列車が近くまで着たのだ。
ゆっくりと駅舎を出た。母も後ろからついて来た。振り返ると、母は微笑んだ。その笑みが切なかった。母の背後から桜の花びらがぱらぱらと散っている。
列車に乗る手前で、もう一回振り返った。母が相変わらず沈黙したままだった。自分も何も言えなかった。ただ花が静かに散っていただけ。
列車に乗り込む。母が何か言ったけど、汽笛の音にかき乱され、よく聞き取れなかった。
列車が緩やかに動き出した。母が列車と一緒になって走りながら手を振る。その姿を見て、何か胸に熱いものがこみ上げてきた。母に何か言いたかったけれど、言葉にならなかった。
実家を離れて暮らし始めた十九の春が人生の最初の節目だった。二十六歳になったとき、母が重い病で倒れ、あっけなくこの世を去った。それが二度目の節目だった。その時、死というものをうまく理解できなかった。長い歳月を要して、ようやく分かった。それは実に単純なことだった。人は生まれ、そして花が散るようにあっけなく死ぬということ。生は束の間の夢だといわんばかりに。
あれから四十年以上の時が過ぎたが、今も桜を見る度に鮮やかに思い出す。旅立ちの朝の期待と不安、春の凜とした空気、母の微笑、時計の音、はかなく散る桜。そして母の死の思い出さえも一体となって鮮やかによみがえる。深い記憶の底に沈んでいた過去たちが、掻き立てられ、水面に浮んでくるかのように。