雪のつぶて18
「なんだ、兄貴。帰ってたの。めずらしー」
エスティマから降りてきた茂はタートルネックのセーターの上から薄いチェックのシャツを羽織っている。下はジーパン、赤い縁の眼鏡のせいでどこかの大学生のように見えるが、スーツを着込めば社会人に代わる。就職してから一気に成長したのか、しばらく会わない間に忠彦も随分と驚かされた。
「ちょっとな。仕事はどうなんだよ」
「まあまあ」
ディップで固めた頭を傾げ、茂は忠彦の車を覗き込んだ。
「一人なんだ」
「今日はな」
「これから駅前の新しくできた焼肉屋に行くんだけど、兄貴も行かない? 車を置きに寄ったんだ。そうしないと飲めないだろ」
「一人で?」
「まさか」
親指をたてた茂は、助手席を示す。女の横顔があった。ぴんと張った睫、整った鼻筋、なにより首からぶらさがっているティファニーのネックレス。運転席の窓を茂が叩くと、助手席の女が降りてきた。ノースリーブのワンピースに肩からひっかけられた黒のショール。女はよく通る声で言った。
「はじめまして、桑野沙織です」
腰を二つに折った沙織の髪が、猫の尻尾みたいに跳ね上がった。口元に浮かんだ笑みとは対照的に、沙織の瞳の奥が鋭い光を放っている。
夕食時が手伝ってか、店の中はすでにさまざまな人達で混み合っている。家族連れも目立ち、あちらこちらのテーブルから白い煙がたち昇っていた。
店の隅にあるテーブルに案内されて、ビールを注文する。運ばれてきたジョッキには、薄っぺらい氷が張り付いていた。
三人でジョッキを合わせてから、ビールを流し込む。冷え切ったビールが、胃のふちをちりちりと焼いていく。よく考えてみると昨日の夜から、ほとんど何も食べてないに等しい。
「今度、結婚することにしたんだ。母さんから聞いた?」
厚い眼鏡のレンズの向こうで、茂は目を細めた。隣にいる沙織はしおらしく俯いている。
「いや、今、初めて聞いた」
「母さんも冷たいなあ」
持っていた箸で、茂は耳のあたりを掻いていく。忠彦は泡が消え失せたビールを流し込んだ。
「どこで知り合ったんだい」
俯く沙織の顔を盗み見ながら、忠彦は皿に盛られているカルビをトングで摘み上げては網に並べていく。
「彼女の病院で今度パソコンを導入することになって、それのレセプションで。つーか、あれ、合コンかな」
はにかんで笑う茂の隣で、そうそう、と楽しげに頷く沙織がいた。パソコンと悪戦苦悩していた薬局長の姿が蘇ってくる。だがそこに茂の勤め先が出入りしていることは初耳だった。
網から白い煙が一気に噴き出してくると、肉がじゅっと音をたてて縮こまっていく。忠彦は丁寧に一枚づづカルビを摘み上げては焼いていき、ついでにキャベツやピーマンものせてやった。
沙織の耳に何かを囁いた茂は、小皿ににんにくとタレを零した。忠彦の分も忘れない。こういう気遣いができるようになったのも、会社に就職してからだった。
それまでは末っ子の甘えが抜けず、やって貰うのが当たり前と言わんばかりに皿を突き出しては、肉が焼きあがるのを待ち、タレを零して貰うのを待っていた。
「ここに義姉さんもいればよかったのになあ。そうしたらとりあえず忠彦兄貴のところは終わりだったのに」
なかなか減らないジョッキを、茂は三本の指に引っ掛けた。
「いつだってまたすぐに会えるさ」
「義姉さん、元気?」
「まあまあ」
「兄貴ってさ、昔からお嬢様好みだったよなあ。義姉さんもそれにもれなくて、凄くおっとりしててのんびりしてて。マイペースな人だよね。でもって、ちょっとふっくらしてて、色白。沙織にも今度紹介するよ」
「楽しみにしてるわ」
同じ病院に勤めていた真美と沙織が顔見知りであることは間違いないのに、沙織はそ知らぬ顔で、ビールを飲んでいく。
空になったジョッキをあげて、忠彦は二杯目を注文した。茂のジョッキは、半分ほどあけてからは減っていない。もともとあまり強いほうではない。兄弟が三人揃っても、飲むのは忠彦一人だけというのがほとんどだった。酒に強かった父親の体質を受け継いだのが、忠彦一人だったらしい。
流行の歌謡曲が流れる間に、茂の携帯の音が鳴り響く。焼きあがった肉を取ろうとして手を止め、ちょっとごめん、会社から、と席を立った。
焼きあがった肉を無視して、忠彦は煙草に火を付ける。ついでに通りかかった店員に焼酎のボトルとグラスを頼んだ。
運ばれてきた焼酎は定番のジンロ。忠彦は黙ってグラスに氷を入れ、焼酎を注いでいった。窓の外を見ると寒そうに肩を竦めた茂が、携帯電話を抱きしめるようにして話しをしている。
肉の焦げるにおいが煙草のにおいと混ざり合って、忠彦の鼻先に届いていた。