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雪のつぶて16

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仕事を終えると、青い空が覗いていた。溶け出した雪は、それぞれの場所を濡らし、過ぎ行く人達の肩にも頭にも落ちていく。眩しさに顔をしかめ、降り積もった雪を踏むと小気味いい音がする。携帯電話が着信を告げるのとそれは同時だった。忠彦は口をへの字に曲げて、携帯電話を開く。真美でもない、真美の実家の番号ではなく、忠彦の母親からの電話だった。
「珍しいね。どうしたの」
 足の底に力を入れて、忠彦は駐車場へと足を進ませる。
『どうしたのはこっちが言うことよ。どうしたの、真美さんから電話があって。あの人、頭がおかしくなっちゃったんじゃないの。何を言ってるのかわけがわからないのよ。電話がどうとか、あんたが妹と浮気してるとか。これから帰ってこれないの? もうお母さん、わけがわからないわ。真美さんにもよく話しをしてみるって言っちゃったし。とにかくちょっと帰ってきてよ』
 忠彦の足が止まる。出てきたばかりの建物のそばに寄り、壁に肩を押付けた。外気にさらされた壁は冷たい。忠彦は崩れた髪をかきあげた。
「真美、そっちに行ってるの?」
『電話だけ』
「ならいいじゃないか。家に帰って話す必要なんかどこにもないよ」
『あんたはそれでいいだろうけど、お母さんはそうはいかないの。大事な娘さんを貰ったんだから。今、どこにいるのよ。もう仕事終わったんでしょう。とにかく、すぐに帰ってきて。帰れない距離じゃないんだから』
 母親の史子は容赦なく電話切っていく。くしゃみを一つしてから頭を掻いた。それでなくても崩れていた髪形が、より一層崩れていく。
 車に乗り込むと持っていた携帯電話とかばんを助手席に投げた。掃除もしていない座席から細かい埃が舞う。
 いい加減にしてくれよ。
 叫びたい気持ちを飲み込んで、忠彦は鍵を差し込んでいく。駐車場に面した通りでは、雪に足を取られた杖をついた老婆が転倒し、持っていた買い物袋から商品をばら撒いていた。雪の上に稚拙な絵を描いてひろがった食材を、老婆は立ち上がることもできず、顔を歪めて腰のあたりをさすっている。ドライブに入れようとしたときだった。前からやってきた二人連れの女が、膝を折ってひろがった食材を掻き集め出した。連れの男は呆れて、早く行こうとせっついている。男の言葉に耳を貸さず、女はピンク色のコートを抱きしめながら、片手で食べ物を拾い集めてやっている。
淡いピンク色のコートに見覚えがあった。思わず何度も目をこすった後で、エンジンを止めていた。勢いをつけてドアを開けると、隣に止めてあった車にぶつかった。緑色の車体に傷が付き、剥げた塗装の下から鉛が見えた。
食材を集めた女は、折っていた膝を真っ直ぐに伸ばし、男と歩き出していく。ようやっと立ち上がった老婆は礼を繰り返している。女は手を振っている。
 気にしなくてもいいですよ。
 聞こえるわけがないのに、こんな一言が聞こえてきた。それは真美の声に似ていた。
ピンク色のコートは、結婚して間もなく、デパートのバーゲンで手に入れたもので、真美のお気に入りだった。
 買ってきてすぐに家の中で着てみせて、何度も自慢していたからよく覚えている。
 半額で買ってきたの。ほら、この淡いピンク色がいいでしょ。この色に一目ぼれしちゃったのよ。
 裾をひらひら揺らしながら、真美は笑っていた。
 二人は駅へと足を進ませている。思わず後を追っていた。
 心臓が倍の早さで動き出し、手の平にはねっとりとした汗が浮かんだ。
 建物の影に身を寄せて、つかず離れず二人の後を追う。二人が如何わしいネオンがついた建物に入るまで、追い続けた。
 二人が消えた建物を見上げる。毒々しい紫色の看板には、ご休憩五千円、宿泊一万から、と書かれていた。
 背筋を伝う汗が、冷たい。まるで氷をあてられたみたいに、背中から足先まで冷え切っていく。
 消える直前の男の横顔を思い浮かべた。柿崎に似ているような気もした。
 今でも二人が会っていたとしたら。
 美野里の薄い笑いが、蘇ってくる。
 雪を蹴飛ばし、たてかけられていた看板を拳で殴った。バランスの悪い看板は、派手な音をたてて濡れたアスファルトに倒れ込んでいく。その途端、胃の底から笑いが押し上げられてきた。咽を解放してやると、自分でも呆れるほどの笑い声が漏れた。
おかしくておかしくて、腹を抱えて笑った。目尻に涙が浮かび、腹筋が痛む。
仮にこの建物の中にいるのが、本当に真美だったとして、その相手が柿崎だったとしよう。二人の関係が、ずっと続いていたとしよう。だからと言って、腹をたてる必要はない。自分にも沙織がいた。逆に真美と柿崎の関係を問いただし、別れることだってできる。病気の真美を、柿崎に押付けてやることができる。
過ぎる人達が、笑い続ける忠彦を訝しげに、遠巻きに眺めていることを知りながら、いつまでも笑っていた
作品名:雪のつぶて16 作家名:李 周子