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雪のつぶて14

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凍りついた空気が漂う部屋の中で、忠彦はクローゼットから旅行用のバッグを取り出し、自分の服を詰め込んでいった。磨かれていないフリーリングの床は、細かい屑が覆いつくし、忠彦の白い靴下を黒く染めていく。
「何してるの?」
 ドアに手をかけた真美の指先が、昆虫の手足みたいに動いていた。寒いはずの部屋で、真美の額にはうっすらと汗が滲んでいる。せわしなく動く忠彦の手は止まらない。
「ねえ、何してるのよ」
 丸まった忠彦の背中も、手の動きに合せて動いている。
「おれが出てくよ」
 無造作に詰め込んだバッグのファスナーを閉めて立ち上がった。立ち尽くした真美の脇をすり抜けていく。
「出て行くって、どこに?」
 忠彦の動きに、真美の体と口も素早く反応した。玄関のドアを開けると冷たい外気が、ひゅうっと音を立てて入り込んでくる。その風の強さに顔をしかめた。
「忠彦、どこに行くのよ」
 切裂く風の中に身を投じようとしている忠彦のスーツの裾を、真美がしっかりと握り締める。
「おまえが出て行かないなら、おれが出て行くよ」
 真美の大きく開かれた瞳から、涙が見る見る間に盛り上がってきて、浮腫んだ頬を伝っていった。
「由美子のところに、行くの。それとも別な女の人のところ?」
 零れた涙が、風に吹かれて斜めに頬を横切っていく。
「どっちだってもう関係ないだろう。何を言っても、おまえは納得しないじゃないか」
 ドアを閉めていた。駐車場に置いた車の中は、まだほんのりと暖かい。真美が追いかけてくるよりも早く走り出そうとした。けれど指先ががちがちに凍りついたみたいでうまく動かない。
 思うように動かない自分の指先に腹を立てながら、やっとのことで鍵を差し込み、エンジンをかける。二人が住む建物を少しだけ見た。真美が追いかけてくる様子はない。溜まってもいない唾を、窓を開けて吐き出した。口の中まで凍りつきそうだった。
 夜道は、今日も明るい。雪のせいで。車は溶けずに残っていた雪を蹴散らして、沙織のマンションへと急いだ。
 沙織なら煩わしいことは、何も言わないだろう。沙織なら。
 
 玄関のドアを開けた沙織は、猫を抱きしめていた。アメリカンショートヘアのシルバータビー。猫の頭を撫でながら、沙織は首を斜めに傾げていく。
「何、どうしたの。今日深夜だって言ったじゃない。忘れちゃったの」
 まるで戦闘服みたいに化粧だけを決めていた沙織の腕に、猫は落とされまいと爪をたててしがみついている。猫の排泄物のにおいが、部屋に充満していた。持っていたバッグを和室に投げ出し、胡坐をかいた。
「どうしたんだ、その猫」
 頭を撫でながらやってきた沙織は、愛しそうに猫に顔を埋めて隣に腰を降ろした。人懐こい猫なのか大きく前足を伸ばし、忠彦の膝を引っ掻き始める。
「職場の子から預かったの。海外旅行に行くから、その間だけ。可愛いでしょ。ねえねえ、ここ、見てよ」
 抱きしめていた猫の両方の前足の間に両手を入れて、猫の背中を見せる。しま模様の、ちょうど人間でいうところの肩にあたる位置だけ、白い毛で覆われている。その毛の辺りを、沙織は親指でなぞる。
「ここ、羽みたいに見えるでしょ。天使の羽っていうんですって。この天使の羽がね、アメショーの特徴なんですって」
「ふぅん」
 テーブルに焼酎の瓶がのっていた。グラスに注ぐこともせず、咽に流し込んでやる。わられていない焼酎は、忠彦の咽を焼きながら胃へと到達していく。
「人懐こいのよお、見て。忠彦くんの膝の上から、全然動かないでしょう」
 猫は初めて会った忠彦の膝の上で、何の警戒心も持たず、暢気に寝そべって顔を洗っている。
「エンジェルって、名前なの。普段は、エンちゃんとかジェルちゃんて呼んでるらしいの」
「単純だな」
「その単純なとこがいいのよお。猫っていいわよ、ほんと。わたしも飼いたくなっちゃった」
 そうして沙織は、また自分の腕の中に猫を抱きしめていく。
「いいわよお、猫は。人間の男と違って、嘘はつかないし、我侭言わないし、迷惑かけないし、裏切らないし」
 どん、と忠彦の肩を、自分の二の腕で叩く。
 小首を傾げた沙織の瞳が細くなり、唇の両端をあげた。
「わたし、今夜深夜なの。明日の朝まで帰らない。ここには、合鍵はない。忠彦くんは、朝、ここから出勤することはできない。わたしが帰るのを待つわけにはいかない。忠彦くんには、仕事があるから。なんたって忠彦くんは、一流製薬会社の優秀で、真面目な営業さんだから。了解?」
 沙織の顔は笑っている。けれど瞳の奥に潜む光は、冷たい色が宿っている。
「出て行けってか」
 猫を抱いた沙織は立ち上がり、バルコニーに続く窓を開け放つ。冷たい風が、部屋の中を満たそうとする勢いでやってきた。煙草を吸うつもりなのだろう。沙織はこの部屋を禁煙にしていた。けれど煙草は吸わず、窓を開けたまま、忠彦のほうを向いた。風に煽られた髪がばさばさと鳴り、沙織の頬や腕を叩いている。
「夫婦喧嘩のとばっちりはごめん。今の職場にまだ勤めていたいしね。こんなことするなら、もう会わない。っていうか、こんなことしなくても、もう会わない。わたし、結婚するの」
「本気で?」
 忠彦の唇が、痙攣する。
 ふん、と鼻から息を吐き出した沙織が、胸を反らせていく。
「わたしね、自分がこんなことしておいてなんだけど、浮気する男って嫌いなの。一番最低なことしてると思わない? 奥さんに対して、それって酷く残酷な裏切り。わたしはね、自分を裏切らない男と結婚することにしたから。忠彦くんみたいにかっこよくもないし、頭がいいわけじゃない。平凡な、道を歩いてて転がってる石ころみたいな男と結婚するの。結婚するなら、そういう男でいい。忠彦くんはアクセサリーとして持ち歩くのはいいかもしれないけど、一生、そばにいて貰っても困るのよ」
 寒さに耐え切れなくなったのは、猫だった。抱かれていた沙織の腕から飛び降りると、どこか見えない場所まで走っていく。
「了解?」
 拳を握りながら立ち上がり、畳の上に転がっているバッグを掴んだ。
「ああ、そうそう。ちょっと待って」
 振り返った忠彦に向かって投げられた、長方形の赤い布。
 お守りだった。学業成就の。
「大切な妹にあげてよ。たまたま今日、北海道神宮さんに行ったから買ってきてあげたわ。可愛い妹に渡してあげてよ。明後日でしょ、資格試験」
「ありがとう。沙織からだと、あまりご利益ないかもしれないけどな」
 お守りを手の平の中で弄ぶ。お守りは暖かかった。
「失礼ね。これでも学校は主席で卒業したのよ」
 上気した沙織の頬が突き出されてくる。
「きっと由美ちゃん、喜ぶよ。じゃ」
 部屋を出て行った忠彦の目には、降り続ける白い雪しか映らない。車のシートに背中を押付けると、目の奥が熱く熱を持っていた。指の腹を使って、瞼をマッサージしてやる。どんなにもんでやっても、熱が取れる気配はなかった。 
作品名:雪のつぶて14 作家名:李 周子