空白の英雄 終
宿から逃げたミーファは何も持ってはいなかった。
追いつけると思って走っていた。走れど走れどトオンには追いつけなかった。3日目の夜に、走っても追いつけない理由に気がついた。トオンは今まで歩幅を合わせていてくれたのだ。きっと彼が本気で進めばどんなにミーファが走っても追いつけないだろう。。
それに気がついても進むことしかできなかった。ミーファには帰る場所もなかったし、留まることなど思い浮かばなかった。彼女の頭はトオンでいっぱいだった。彼に会いたくてしかたがなかった。
4日目にたどり着いた町は、どうも様子がおかしかった。
皆が皆、大荷物でミーファの来た道を逆走していった。東に向かうのはミーファだけだった。
それでも東へ進むミーファを婦人が止めた。
「あんたどこ行くのさ」
「東に…人を探してるんです」
「やめんさい。北東の巣窟から魔獣が溢れ出したんさ。東へなんて行けやしないよ」
ここだ。トオンはその山を突っ切っているはずだ。ミーファは直感的にそう判断すると、婦人に礼を述べ走り出した。
魔獣がいるならまだトオンはいる。ミーファはそう確信していた。
閑散とした町を林を抜け、ひらけた場所にたどり着いた。
山中にも村があったらしい。だが今は瓦礫しか残されていない。魔獣に襲われ家も何もかもがなくなっていた。
変な気持ちだった。
家らしい家も道も壊れてわからないのに、人がいるような気配があった。
「誰かっ、誰かいますかー?」
返事はない。
村人が瓦礫に挟まっているとか、怪我で動けないとか、そういった様子もない。ミーファは道なき道を歩き続けた。瓦礫の少ない場所を選んで道にした。でもそこは茶色い地面が真っ赤に染まっていた。小屋だったらしい質素なアルミ屋根の下から血が流れてきたらしい。その近くには馬だか犬だかわからない肉片が赤々と散らばっていた。この村はついさっき魔獣に襲われたのだ。
ミーファは急に恐怖を思い出し、赤い道から後退った。瓦礫の上を這うように山の奥へ、東に向かった。何かが近づいてくる気配に気がついてミーファは瓦礫の中に身を潜めた。
野犬の吠えるような声が近づいてきたかと思うと、それは魔獣だった。頭と尾のふたつある奇怪な生き物が数頭村を走りすぎていった。
ミーファはこんな間近で魔獣を見るのは初めてだった。噂以上に気味の悪い姿と声に、腰が抜けて体が動かない。
魔獣は東から来た。どうやら巣窟はまだ東にあるらしい。
「どうしよう…」
やはり無理だ。
ミーファではこの山を越えられない。魔獣はまだまだたくさん東から走ってくる。見つかったらおしまいだ。
ジッと息を凝らして隠れていた。
東から魔獣の群れとそれに終われた人たちが走ってきた。逃げ遅れた村人なのだろう。助けたくてもミーファにはどうしようもできない。ただその3人を見る事しかできなかった。
村人のひとりは乳のみ子を抱えた母親だった。庇うように夫らしき人が女性の背中を押している。
「走れ!」
3人目の人物が叫ぶ。彼は村人ではないようだ。夫婦を庇うように魔獣を引きつけて走っている。夫婦はどうにか魔獣の群れの中から抜け出せそうだった。
だができなかった。
妻が瓦礫につまづいた。
魔獣たちは3人を取り囲んだ。魔獣は弱いものを狩る習性がある。だから魔獣たちは妻の抱える乳のみ子めがけて狙い飛びかかる。若い夫婦には魔獣を追い払うことすらできなかった。
男は夫婦の命綱だった。男が魔獣を大剣で払う。飛びかかる魔獣はすべて真っ二つに叩き斬った。夫婦と赤ん坊はそうやって守られて村の廃墟まで逃げてきたのだ。
動かない標的を狙ってくる魔獣を斬るのは簡単だったらしい。男はあっという間に親子を襲う魔獣を全て斬り捨てた。
親子はその隙に礼を述べながら町まで走っていった。
どこからともなく魔獣は湧いて出てきた。魔獣は統率こそとれてはいないが、数の利があった。巣から無限に湧き出てくるようにさえ思えた。小一時間、男は1人で全ての魔獣を相手にし、葬った。それこそ目に見えるもの全てを――。
魔獣がいなくなると、男は地面に膝をついた。100とも1000ともつかない魔獣を相手にしたのだ。疲れるのも無理もない。
だがまだ一匹いた。
「トオン!」
ミーファは瓦礫から出るとトオンを突き飛ばした。あまりに一瞬の出来事だった。
トオンには何が起きたのかわからなかった。ただの白昼夢にも幻にも思えた。おいてきたはずの少女が走ってくる。彼女はまっすぐトオンに向かって走ってくる。思わず白い腕を掴もうと、手が伸びた。それよりも早く彼女は胸に飛び込んだ。
だが違った。
ミーファは体中の力でトオンを突き飛ばした。
まだ一匹いた。
突き飛ばす必要はなかったかもしれない。
標的を変えた魔獣の牙が柔らかな肉に突き刺さる。いとも簡単に肉をえぐり裂いた。赤い飛沫が宙に舞う。
まだ一匹いた。
逆上したトオンは大剣を魔獣に投げ刺した。
「ミーファ!!」
うずくまる少女にはわき腹がなかった。
「トオン」
ミーファは思いのままに駆け寄ろうと立ち上がった。
だがそれは叶わない。彼女は彼女の作った水溜まりに再び倒れ込んだ。
「トオン…」
トオンは駆け寄り、ミーファを抱き起こした。苦痛に歪むミーファの顔は血の気が引いて真っ青だったが、トオンを確認すると安心したようにほほえんだ。
「トオン…怪我、ない?」
「バカ野郎…!」
手に力が入る。もうミーファは助からない。長年の勘からそう悟った。
真っ赤に染まったスカートがそれを物語っていた。
「なんでついてきたんだ…なんで…」
「ごめんなさい」
ミーファはポケットをまさぐった。
「お財布、届けたくて…」
ミーファは手を止めた。財布は盗られてしまったのだ。ミーファは何も持ってはいない。
「そんな事のために……!」
トオンは自分を悔いた。彼は自分が置いていった財布のために、自分のためにミーファを戦地に引き込んだ。巻き込んだことを悔いていた。
ミーファはそれに気づいた。
「ごめんなさい。…嘘吐いた」
財布はないのと、小さくミーファはささやいた。
「本当はお姫様が羨ましかった」
ミーファは手を伸ばした。目が見えなくて、会いたかった人の顔が霞んでしまっていた。手で彼を確かめたくて手を伸ばした。トオンの胸に手があたった。
「何を言ってるんだ」
「トオンの…。私はトオンの何にもなれなかった。なのに…お姫様は私の生まれる前からトオンに想われて……。嫌だったの」
トオンは言葉が出なかった。
「お友達のところに行くんでしょ? 王様のところ――。お姫様のために…」
「それは……」
ミーファは手探りでトオンの頬に触れた。そこは絶えず水が流れてくる。
「泣いてるの?」
トオンは何も言ずに、頬に触れるミーファの手を握りしめた。冷たい指だった。
「ごめんなさい」
泣かせてしまったことを謝る反面、もっとトオンに泣いてほしかった。もっと泣いてくれたらこの先ずっと、トオンは忘れないでいてくれる様な気がした。
忘れないでいてほしかった。
お姫様のようにまではいかなくとも、何年も忘れないでいてくれればと願う。
それでもやはり、泣かないでいてほしい。
「もう邪魔しないよ…。でも……私の勝ち」