雪のつぶて13
「だいたいのことは、前から聞いてたんだけどね。病気のこともね」
足元から体を切りつける冷たい風が這い上がってきて、全身を侵そうと必死になっている。
「病気、よくなってないんじゃないの? 病気にさせるためにあなたと結婚させたわけじゃないんだから。しっかりして頂戴よ」
母親はしきりに、居間と忠彦に瞳を走らせていた。閉じられているドアの向こうに、聞き耳をたてている真美の姿が見える。
「真美は、確かにちょっと我侭なところはあると思うのよ。根ものんびりしてるし。でも、わたし達から見れば本当に手のかからない子供だったの。高校だって市内の一番いいところに行ったし。親の目から見ても、可愛い子でしょう。だからちょっとちやほやされて育ったところはあると思うの。でも、それが愛嬌で可愛いところなのよ。少しくらいの我侭は目をつむってやって頂戴。あの子だって一生懸命やってるんだから」
唇を歪ませて、忠彦は黙っていた。
いい高校も何も、市内でも有名なお嬢様学校だった。のんびりとした校風のせいで世間からは少しずれた人間が集まってくるという。巷の噂だからと忠彦は高を括っていたが、平凡なサラリーマンの家で育ってくせに、小さな頃からもてはやされて育ってきた真美も、やはり少し人とはずれていた。ちやほやされるのが当たり前、なんでもやって貰うのが当たり前、という自分中心の考え方は結婚してからも変わらない。内心うんざりしていた。それでもこの母親からすれば、真美は自慢の娘だった。恐らくは、今必死にがんばっている由美子よりも。
「すみません、真美を、連れて帰ります」
面倒になって頭を下げていた。
「そうして頂戴。真美も本当はあなたとちゃんと暮したいんだから。とにかくあがって。お茶でもいれるから。外は寒かったでしょう」
勧められるままに部屋にあがると、こたつに真美が足を突っ込んで座っている。丸まった背中が、レンタルビデオ屋にいた女によく似ていた。その真美が振り返る。
にっ、と唇の両端を持ち上げて真美は笑う。細められた瞳に、鋭い光が宿っている。その瞬間、血液という血液が頭のてっぺんまで辿り着いた。
母親の存在を忘れて、忠彦は無遠慮に居間まで行き、こたつの中に隠れていた真美の腕を引っ張った。無防備だった真美の体がわずかに引きずられ、小さな悲鳴があがる。
「帰るぞ、何やってんだ」
かまわずに力を入れていく。バランスを崩した真美の体が、ずるりと畳の上に倒れていく。
「乱暴なことはしないで!」
慌てて叫んだ母親は、真美の体に覆い被さった。力が抜け、忠彦の腕も真美の腕もだらりと糸が切れたみたいに垂れ下がる。
「帰る。支度は、それでいいのか」
テレビボードには二人の結婚写真が飾られていた。真美は笑っていた。あの日からわずか二年。真美の笑顔なんかもう何ヶ月も目にしたことはなかった。
結婚したらわたし、忠彦のいい奥さんになるからね。みんなが羨ましくなるみたいな。だから仕事も辞めるから。そうしないとちゃんとした奥さんになれないから。
はちきれそうな笑顔で真美は言った。それだってそんな遠い過去じゃない。
週末になると、よく二人でスーパーに買い物に行った時期だった。かごの中はいつも野菜や魚の切り身、冷凍食品で溢れかえっていた。食材でいっぱいになったかごをカートにのせて、店の中を移動することを真美は好んだ。
カートなんか、押すのが面倒くさいじゃないか。
あら、このカートがいいのよ。新婚夫婦って感じでしょ。
食材を買うためだけの買い物に、真美はいつもたっぷりと時間をかけた。途中で切り上げると、途端に機嫌が悪くなり、頬を膨らませた。その頃から、我侭な奴だと思っていたが、それも魅力の一つだった。
そんなに食べられやしないよ。おれ、一人暮らしだぜ。真美が一緒に暮らしてくれるならいいけどさあ。
もうじきじゃないの。あ、そこのほうれん草もいれて。九十八円だって、やっすい。ここのスーパー、いいわよ。
それはたいてい日曜日だった。土曜日はどこかに出かけ、日曜日は忠彦が借りているアパートで過ごす。それがいつからかの決まりごとになった。溜まった洗濯物を片付け、部屋の掃除をし、夕方には買い物に出かけ、夕飯をつくる。ついでに次の夜の惣菜までつくって帰っていった。
その頃、真美は咽の奥を転がして笑っていた。一緒に暮らせる日が待ち遠しかった。
拳をつくり、視線が写真からも真美からも逃げていく。引きずられた真美が毛虫みたいに這い蹲りながら、重たくなった体を持ち上げようとしている。手伝ってやろうとする気力もなく、真美がのらりくらりと立ち上がる姿を見ていることにも苛ついて、先に玄関へ行っていた。ここは相変わらず寒くて、入り込んでくる風の音すら聞こえてきそうだった。
ようやっとパンプスを履いた真美と並びあって、母親に向かって頭をさげた。
「お騒がせしました」
「喧嘩は、してもいいと思うけどね」
ため息と共に吐き出した後、母親は上目使いで忠彦を見た。瞳が痙攣しているように鋭く震え、何かを言いかけた唇を閉じた。そんな行為を何度か繰返した後、母親は両方の手をしっかりと握り締める。
「本当に、由美子と会っていたりするの?」
眩暈がした。一瞬、自転している地球に自分一人がついていけず、取り残されているような感覚がした。
「どうなのよ」
疑いを隠し切れず、隠そうともせず、母親は追及してくる。唇を真一文字に結んでから頭を下げ、後ろにいた真美の手を引いて車の中に乗り込んでいった。
一秒でも早く、母親の前から逃げ出したいと思った。それ以上に、真美という存在からも、逃げたいと思っていた。
沙織に、会いたい。
心の底から気泡のように湧き上がる思い。雪はやみ、視界は広がっていた。