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雪のつぶて8

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どうぞ、と沙織がテーブルに用意してくれたのは、とろけたチーズがたっぷりとかかったピザ。
「つくったの?」
 隣に座った沙織の唇が、両方に引っ張られ、一本の線になっていく。
「まさか。冷凍。トースターで焼くだけ。わたし、料理しないことにしてるの、知ってるじゃない」
 口元から零れる笑みを救い上げるように、沙織は指を唇にあてる。
 キッチンが汚れるから、料理はしない。手料理が食べたかったら、奥さんに頼みなさいよ。
 それが沙織の口癖。
 傾けられたグラスを合わせると、小気味いい音が零れる。ブルーのグラスを当てると、沙織の唇が、奇妙な色合いに変わった。
「ところで、由美ちゃんだっけ? 忠彦くんの大切な妹」
「うん」
「それなりにやってるわよ。仕事も勉強も。この前夜勤が一緒だったけど、必死で卒試の勉強してたわよ。まあ、男のほうも相変わらずみたいだけどね」
 沙織は右側の眉を持ち上げる。
「男?」
 瞬時に反応した忠彦の顔が、強張っていた。
「あの子、ばかなのよお。寮の前まで男に車で送らせるのよ。丸見えなんだもん。しかも日替わりメニュー。車が毎回違うから、すぐにわかっちゃうの。おまけに外車が好きなのかしらねえ。特にアウディ。違う色のアウディがよくとまってるわよ、寮の前に」
 看護婦という仕事をしているくせに、沙織はささくれ一つない、すんなりと伸びた指でピザをつまみあげた。伸びて細い線に変わったチーズを、リズムよく指に巻きつけていく。
 バーボンの水割りを飲みながら、忠彦はテレビを見た。最近売れ出した若い女の歌手が、頭につけた赤いリボンを揺らしながら歌っている。テレビを遮るように飛び込んできた沙織の顔は、両方の頬が膨らんでいた。
「聞きたくなかった? それとも心配してる?」
「両方」
 掴んだバーボンの瓶には水滴がつき、手の平を濡らした。グラスに注ぐと琥珀色の液体で氷が隠されていく。忠彦は一息に煽った。
「大丈夫、資格試験は受かるわよ」
「本当に?」
 沙織は黙って頷き、透明な液体を飲み下していく。沙織の咽が、見たこともない生き物みたいに上下する。
「大丈夫よ。そんなこと、あなたが心配したって、仕方ないじゃない」
「試験、いつ?」
「今度の日曜。心配なら、付き添ってあげれば? 大切な妹のために休みを使うのもいいでしょ」
 大きく口を開けて沙織はまた笑った。甲高い沙織の笑い声が、部屋の中を空々しく走っていく。
 笑い声を遮って、家の電話が鳴り始める。笑いをぴたりと止めて、重たげに受話器を取りあげた。
 たっぷりとタバスコをかけたピザを、忠彦は口に運んでやった。口の中に走るぴりぴりとした痛みが好きだった。痛みは、時が過ぎればなくなっていく。過ぎ去らない痛みよりも何倍もいい。顔をしかめて、真美の怯えて、青ざめた顔を思い出していく。
 電話が鳴りっぱなしなのよ。無言電話ばかり。あなたがいないとかかってきて、帰ってくるとぴたりと止まるの。気味が悪くて仕方がないのよ。
 青ざめた顔をして、真美は訴える。真美が嘘を言っているとは、思ってはいない。だが無言電話に遭遇したことがない忠彦には、何処までが真実なのか、判断のしようもなかった。それを確かめようとして由美子に会ったのが去年の夏。結局は、何も変わらなかったが。
 あの日真美は、何の相談もせずに番号を変えた。
 勝手に変えたことを問い詰めると、真美は泣き出して、叫んだ。
 だって、あなたはわたしの言うことなんか信じてもくれなかったじゃない! 話しも聞いてくれなかったじゃない!
 髪を振り乱して泣き喚く様を、忠彦は拳を握りしめて聞いていた。以来、真美は同じことしか言わなくなった。
 電話が鳴り続けている。気が狂いそうだ。なんとかして。
 チーズでべとついた指先を、ぺろりと舐める。
「ごめんね」
 電話を切った沙織は、忠彦のほうに顔を向けた。バレットでとめただけの長い髪が、ばさりと頬にかかる。
「母親。うるさくてかなわない」
 頬に落ちてきた髪を、手の平で後ろに払っていく。
「心配してるんだよ」
「悪い虫が、ここにいますからね」
 忠彦の膝に馬乗りになると、頬の肉を二本の指で摘んだ。
「おれは、虫か」
「そう、どうしようもなく、手癖の悪い、虫」
 忠彦の首に腕を回しながら、沙織は唇の先を突き出した。
「そうか。どうしようもないくらいの、虫か」
 細くしまった沙織の腰を、軽く抱きしめていく。
「そう。もう少し、飛んでてもいいけどね」
 胸の中に入り込んできた沙織を受け止めると、髪からパッションフルーツのにおいが漂ってきて、忠彦の鼻先を掠めていった。
 その晩、久しぶりに沙織を抱いた。自分の腕の中で、沙織は何度も泣いた。普段とはまるで違う瞳の色は、か弱い女のものになっていく。威圧するような強さはない。孔雀の羽もない。
 忠彦の腕の中で、沙織は別の女に変わっていく。
 二つの顔を持ち合わせたような沙織が、たまらなく愛しいと思うようになっていた。
 
作品名:雪のつぶて8 作家名:李 周子