雪のつぶて4
ポケットに手を突っ込んでのらりくらりとアパートへと近付き、踏みしめるように階段をのぼっていく。部屋の鍵を取り出す動作も遅く、鍵穴に差し込む指先が寒さのためか小刻みに震えている。かじかんだ忠彦の手を殴りつけて、ドアが何の前触れもなく開かれた。中から顔を見せたのは、昼間会った美野里。その奥に、顔が浮腫んだ真美。
「あ、おかえりなさい。お邪魔してました」
腰を二つに折って、頭を下げられた。美野里の痛んだ髪の先が、好き勝手な方向に飛んでいる。
「あ、どうも」
じゃ、またね、と駆け出していく美野里を見送った。彼女が着ていたコートの裾に毛玉がいくつもついていた。
「早かったのね」
声には抑揚がなく、無表情だった。髪に隠れて見えないが、顔もきっと能面のように違いない。
「こんな日もあるさ。今日、彼女と病院で会ったよ」
真美の脇をすり抜けて部屋にあがったが、外気とあまり温度が変わらなかった。エアコンもつけられていないリビングのテーブルには、真美がかかりつけの病院から貰ってきた薬の袋と、マグカップが二つ並んでいた。寒々しい部屋で、二人は顔を突き合わせていたのだろうか。テーブルを指の腹でこすると、ざらりとした感触がした。目の高さまで指を持ち上げると、真っ黒な汚れで指紋がくっきりと浮かび上がる。
「あなたよりも、よっぽど美野里のほうが心配してくれたわ。無言電話のことも、病気のことも。あなたはなんにも聞いてはくれないけど、美野里は親身に聞いてくれたわよ。最後に頼りになるのは友達のような気がしてきた」
汚れたマグカップを手に取って、真美はキッチンに移動していく。乾燥した足に粉がふいていた。
「じゃ、彼女と一緒に暮らして、毎日話しを聞いて貰えばいいさ。おれは一向にかまわないよ」
一瞬にして血色が失われた浮腫んだ真美の顔の中で、両目が吊り上っていく。すかさず使われたマグカップが飛んできて、忠彦の肩を掠めて床に転がり、残っていたコーヒーが散らばって、床を汚した。
「卑怯者。よくそんなことが言えるわね。無言電話の犯人だってわかってる。病気の原因だってわかってる。でも、あなたはなんにもしてくれないじゃない。由美子に会って、話をしてくれたの? どうせしてないんでしょう。何よ、何よ。もう。信じられない。わたしがこんなになっちゃってるのにっ。全部、由美子のせいなのに、あなたはなんにもわかってくれない。わかろうともしない。もう沢山っ」
シンクに両腕をついた真美は、そのままずるずると座り込んでいく。後はわけのわからない泣き声。
これだけからいやなんだよ、ここに帰ってくるのは。
腹の底から湧き上がってくる言葉を押しとどめるために、忠彦は奥歯を噛み締めて耐えなければならなかった。
泣き声に混ざりあって届く言葉。
卑怯者、ずるい。卑怯者。なんとかしてよ。
「出かけてくる」
泣き崩れる真美を置き去りにした。背中で響く、拳で床を叩く鈍い音。
「卑怯者っ。話しを聞いてよっ」
吹雪に似た叫び声など、聞き飽きていた。閉口していた。そんなものは、最早何の効果も持たない。車に乗り込んだ忠彦は、祈りながら携帯電話を耳に当てていた。