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雪のつぶて3

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白いベンチに座り、三本目の煙草に忠彦は火を付けた。由美子のミニのデニムから伸びた足が、公園の土を蹴り上げて走ってくる。紺色のスニーカーを土ぼこりで汚しながら、由美子が大きく手を振って近付いて来る。座っているベンチの後ろでは赤やら黄色やらのダリアが咲き乱れていて、北の大地に短い夏がやってきたことを告げていた。
お待たせあれー。
 ようやっと忠彦の前で立ち止まった由美子は、肩を上下させて乱れた息を整え始める。肩までの髪が煽られ、四方八方に飛んでいる。由美子が必死になって手の平で髪を撫で付ける様を、忠彦は目を細めて眺め、短くなった煙草を茶色の土の上に押付けていった。
行こうか。店はもう予約してあるから。
 立ち上がった忠彦は、尻を手の平で払っていく。
 右腕にぶら下がってきた由美子に引きずられて、体が斜めに傾いた格好で歩き出していく。
もう、これまでもかってくらいにお腹すかせてきたからね。さ、いこいこっ。
 予約してある店の前で、あせたブルーの暖簾が風にはためいている。暖簾に描かれた菊の花だけは、色鮮やかに咲き乱れ、訪れる客を誘っていた。
 カウンターしかない寿司屋は、まだ夕飯には早い時間だというのに、空席はわずかしか残っていなかった。威勢のいい声に出迎えられて、二人でカウンター席に並んで座り、ビールを注文する。すぐさま隣に座っていた由美子も、わたしもビール、と声を張り上げる。まだ学生だろうが、とたしなめる忠彦に、由美子はぺろりと赤い舌を出した。
半分社会人ですから。
そういうこというなら、補修なんか受けずに済む立場にならなきゃ。勉強サボってる証拠だぞ。
 大きな手の平で由美子の頭を撫でてやると、折角整えた髪がまたぐしゃぐしゃになっていく。
いいじゃない。ちゃんと二年生には進級できました。卒業もできそうです。資格試験にも受かります。
 出されたおしぼりで、由美子は手首まで拭っていく。高校を卒業した後、由美子は市内にある総合病院に勤めながら、看護学校に通っていた。仕事のほうはともかく、試験の前でも夜勤が休めない状況では、勉強に手抜かりが出てしまうのも仕方ないと諦めてはいるが、周りの人間にはうまいこと伝わってはくれないのが歯がゆいらしい。由美子はぷぅっと頬を膨らませた。
 忠彦がついでやったビールを一息に煽ると、由美子は満足そうな笑みを浮かべた。
注文してよい?
どうぞ。
んじゃ、いくら、うに、アナゴ。あと、生牡蠣。牡蠣は刺身でそのまんま食べる。
君ねえ、遠慮ってものを知らないの。
テーブルに肘をつき、傾斜をかけて由美子を眺める。
いいじゃないの。日頃病院の食堂で患者さんと同じもの食してるのよ。たまにはおいしいものを食べさせてよ、ね、おにーさん。
 唇の端を引っ張って、由美子はにーっと笑う。無邪気な笑みが、今の忠彦には痛い。
 簡単に空になったビールグラスをテーブルに置くと、由美子の表情が一変した。
ところでなんか話しがあって呼んだんじゃないの。
え、ああ。うん。
 首を捻じって頭を掻き、忠彦は煙草を口にくわえた。
何よー。煮え切らない言い方だなあ。なんか言いにくいこと?
あー、いや、そうじゃないんだが。
 青ざめた妻の真美の顔が蘇る。昨夜の喧嘩ともつかない口論も蘇る。
 真美は泣いていた。
 電話が鳴りっぱなしなのよ。こんなことするの、由美子しかいない。あの子が毎日毎日電話をかけてくるのよ。忠彦のいないときを狙って。こんな意地悪なことするの、あの子以外に考えられないわ。
 夜になると決まって真美は無言電話が絶え間なくかかってくると訴え、その犯人が由美子だと言い張り続けていた。泣き叫ぶ真美を持て余し、どうしたらいいのかわからなくなってしまったのが昨夜。それまでは宥めたりすかしたり、慰めたりをどうにかこうにか繰り返し、誤魔化し続けてきた。
 グラスの底に張り付くように残っていたビールを、忠彦は一息に飲み干した。
お姉ちゃんのこと?
 顔を下から覗き込んできた由美子は、深刻そうな顔つきをした。一瞬だけ。
お義兄さんがわたしを呼び出すなんてそれ以外には考えられないもんね。どうせあの人のことだから、またわたしのことけちょんけちょんに言ってるんでしょ。ほら、わたし達、仲が悪いしね。なんていうか、あの人、わたしがすること何でもかんでも気に入らないみたいよ。うちじゃお母さんが二人いるのと同じようなもんだったし。でも、今はもう家を出たしさ。ほっとしてる。文句を言う相手がいなくなっちゃったもんだから、お義兄さんのところにいったんでしょ。大方、そんなとこよ。あの人、被害妄想激しいし、放っておけばそのうち諦めるって。それよりも、子供をつくってよお。そうすれば、お姉ちゃんの目もそっちにいって、わたしも解放されるってもんよ。
 出された生牡蠣を、箸を使わずに由美子は口の中に流し込んでいく。んーっ、おいしー、と生牡蠣を頬張る由美子の軽快な声が遠くに聞こえた。手酌で注いだビールを流し入れると、忠彦はグラスを握り締めたままテーブルに置いた。
 こら、忠彦くん。
 指先でつつかれた肩。反動で体が斜めになっていく。
 そんな顔しないの。
 ぱーっと、飲んで。カラオケにでも行こっ。いやなこと、みんな忘れられるって。
 でもって、それもおれのおごりね。
 もっちろーん。
 艶やかないくらの軍艦巻きを、由美子は頬を膨らませて咀嚼していく。
 カラオケに移動していく途中で、二人で暮らすアパートに電話をかけた。夕食はいらないと言うつもりだった。だが、携帯電話から聞こえてきたのは、無情な機械音。
 この電話番号は現在使われておりません。
 携帯電話を握り締めて、暗くなった空を見上げた。街のあかりに照らされた雲が、どこに行くつもりなのかぷわぷわと漂っている。夏だというのに、空々しい冷気を忠彦は感じていた。
作品名:雪のつぶて3 作家名:李 周子