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ニューヨークの音楽家

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故郷に帰りたかった。母に告白したかった。謝りたかった。自分に才能がなくてごめんなさいと。何度、そんな場面を想像したことか。ところが、その一方で、悪い冗談のような悪夢をみた。奇跡のような賞をとったという悪夢だ。……家に帰る。母がいる。いろいろと話をする。自分でも信じられないような、世界的な賞をとったことを告げる。涙が浮かべ破顔となった母……そこで突然、夢はさめる。不思議そうにあたりを見渡す。しばらくして、ニューヨークのアパートであることに気づく。後味の悪い空しさ、脱力感がいつまでも残った。何よりも一人で夜明けを待つことがつらかった。その時、このニューヨークで自分が独りぼっちであることを思い知らされた。
 いつしか酒をたしなむようになった。悪夢をみるのが恐ろしかったからである。
 ある日、洋子が部屋に訪ねて来た。
「わたし、賞をとった」
「賞を?」
 洋子は嬉しそうにうなずいた。
「そりゃ、おめでとう。すごいな」
 先に追い越されてしまった悔しさと、心を寄せた人が受賞したという喜びが不思議に入り混じった顔で彼女を見た。
 洋子は続けて「あなたは変です」と言った。
「何が?」
「だって、この頃、酒ばっかり」と答えた。
 その一言で彼は怒った。それがきっかけで別れる羽目になった。淡い恋があっけなく終わった。大切な人が去り、心が折れた。それでも音楽家になる夢を捨てなかった。だが、追い打ちをかけるように、半年後、母の死の知らせが叔母から届いた。突然の電話だった。
「分かる? ミナコよ。あなたの叔母よ。分かるでしょ? お母さんが死んだのよ。分かる?」
どう答えていいのか分からなかった。それよりも、気持ちをどう整理したら分からなかった。
「ねえ、帰ってくるわよね。国際電話はお金がかかるでしょ? 要件を言ったら、すぐに切るわよ」
 お金にうるさい叔母さんであった。
「ねえ、何とか言ってよ。お母さんが死んだのよ」
聞いているうちに涙が流れてきた。何か言おうと思っているのに言葉が出てこない。
「何度も言わなくたって分かっているよ」
「あなたって、相変わらず冷たいのね。お母さんが死んだというのに」
 冷たいのではなかった。ただ不器用なだけなのだ。自分の思いを素直に伝える術を知らないだけなのだ。
「ところで、あなた、知らなかったの? お母さんの具合がずっと前から悪かったこと?」
 前からうすうす気づいていた。
「ねえ、お母さんが死んだのよ。葬儀には、来るでしょ?」
「分かったよ。そう何度も言わなくたって」
「何度もじゃないわ。たった四回よ」
「十分だ」と言って彼は思わず電話を切った。
 ふと、窓の外を見ると、もう春に近いというのに雪。通りには人影はない。雪の風景に思わず故郷を思い出して泣いた。
 
――彼は独り言のようにニューヨークでの過ぎ去った日々を語った。
「母の死を境にして、音楽家になる夢を捨てた。その後は自堕落な生活だ。ピアノを弾いたりして稼いでいるけどね。一人のアメリカ人女と結婚した。こっちもろくでなしだったが、あの女もろくでなしだった。その女とも別れた。あっという間に歳をとった。もうじき四十になる。日本に帰る気はないよ。故郷にも戻らない。いや戻れない。ところで故郷は春になったか?」
「そうだ。もう梅の花が咲いている。雪が降る中で咲いていた」と答えた。
「故郷を離れて二十年、まさに光陰矢の如し、あっという間に時間が去った」と笑った。
「ところで君は幸せか?」と彼は聞いた。
 返答に窮した。仕事があって、多少の貯えができたが、孤独で幸せからは程遠いところにいたから。
「俺はいろんな夢をみたよ。十分生きた。夢にぶつかって玉砕したんだ。夢のかけらを抱いて、自分の愚かさを呪いながら、ここで死ぬよ」と狂ったように笑った。
 夢を持たずに生きた自分は彼のように砕けることはなかった。代わりに何もない。夢の残骸さえも。



作品名:ニューヨークの音楽家 作家名:楡井英夫