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悲しみが止まらない

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『悲しみが止まらない』

N市の郊外に広がる高台はA平野を一望できる避暑地として有名なところで、画家の貴子が引っ越してきたのは三年前のことである。ただ単に都会暮らしに飽きて引っ越ししてきたのではない。長く続いた恋が突然終わったのを機に、心機一転する意味も含めて引っ越ししたのである。貴子はまだ四十前だった。ボーイッシュな髪型とすらっとした体型のせいか、さらに十歳くらいさばを読んだことで誰も気づかないくらい若く見え美しかった。女盛りといっても過言ではなかったが、さすがに八年続いた恋をすぐに忘れてやり直せるほど若くはなかったのである。
 
貴子の生活は実にシンプルである。朝、起きて軽く朝食を済ませる。絵を描き、昼になったら、駅前にある洒落た喫茶店で昼食をとる。そして近くの寺や山などを出かけてスケッチした後、家に戻り、夕食する。夕食はフランス料理、それにワインが欠かせない。
引っ越して半年が過ぎた頃である。いつも行く喫茶店で若くてハンサムな少年がボーイをするようになった。しばらくして、口を利くようになった。話をするうちに、少年が以意外にも自分の近くに住んでいることを知り、親近感を覚える。
梅雨入りして数日後、たまたま、車を運転して家に帰ろうとしたところ、土砂降りの中を駆け足で走る正面を見つけた。車を停め、彼を乗せた。
「どうしたの?」と貴子が聞くと、
「家に帰るところです」と少年は快活に答える。
少年を自分の家に連れて行き、服を乾かしてあげた。裸体の上半身があまりに美しかったので、つい見惚れてしまった。
「どうかしましたか?」と少年が聞くと、
「あなたをモデルにしたいけど、いい?」と聞いた。
 少年は少しためらいがちに「かまわない」と答えた
日曜日に、少年が貴子の家にやってきて、モデルになった。絵を描きながら、あれこれと少年の話を聞いた。
絵がほぼ完成した夏の初め頃である。少年から突然好きだと告白を受けた。その目は嘘をついているように見えなかったものの、馬鹿げた話だと思って無視した。なぜなら、十九歳の少年と恋に落ちるには、あまりにも歳を取りすぎていたから。しかし恋なしで生涯を終えるには、まだ若過ぎた。
少年が帰るとき、「もう、絵が完成したから」と少年に告げた。
 もう来なくても良いとは言えなかった。だからといって、ずるずると来てもらう理由もなかったので、「絵が完成したから」と言ったのである。
「もう、来なくてもいいの?」と少年は聞いたが、貴子は微笑んだまま何も答えなかった。

一週間が過ぎたが、少年が来なかった。貴子はほっとした反面、失望した。ところが、晴れた八日の夜、ちょうど美しい月が出ていた夜である。少年が訪れたのである。時計の針は午後八時を過ぎている。少年はいつになく切なそうな顔をしていた。
色々話すうちに、いつしか少年は身の上話を始めた。月明かりに照らされた少年の横顔は神々しいほど美しかった。
十二歳のとき、交通事故で大好きだった母親を失った。その日を境に心の中に大きな穴が開き、悲しみが癒されることがなかったと告白した。
「私もあなたと同じように好きな人を突然失った」
それは花村との長き恋のことである。花村とは十年恋人関係だった。互いに縛られたくないということで、別々に暮らしていたが、夫婦同然の深い仲だった。それが花村の突然の死によって、終わったのである。
「忘れることは出来た?」
貴子は首をふった。年甲斐もなく涙で頬を濡らした。
少年が後ろから抱きついた。その時から、少年への同情が恋に変わった。その愚かさを知りつつ、燃え上がる心を抑えることができなかった。それから、少年に愛、人生、哲学を語った。少年は貴子に導かれて愛の道を歩んだ。切ないほど激しい愛だった。肌を重ね、貪るように愛し合った。
夏も終わる頃、貴子はうすうす気づいた。この愛がほんの一時であることを。少年がやがて自分の体を夏の風のように通り過ぎていくことを。とはいえ、愛さずにはいられなかった。
 
秋に変わり、そして冬になり、その長い冬も終わりに近づき、再び春がめぐった。
少年はそれでも彼女を狂おしく求めた。彼女は一抹の不安を抱きながらも、この愛が永遠に続くのではないかという淡い期待を持っていた。だが、不安は的中した。少年は一人の少女に出会ったことを告白した。貴子は表情を変えず、黙って聞いた。やはりこの日が来た。ずっと、この日が来ることを予感していた。取り乱してはいけない。けれど、心の乱れは抑えることができない。表情を変えないのが精いっぱいだ。何も表情を変えない能面のような顔は偽りの仮面だ。仮面をとったら、嫉妬に狂い、泣きじゃくった顔がある。
それから、少年は来なくなった。一日、二日と過ぎていくうちに、もう二度と来ないことを悟った。そうなることを予感していたはずなのに、いざ、その場面に直面すると、さすがの貴子も悲しみに暮れた。そして、もてあそばれたという思いになり、やるせない怒りさえも覚えたりした。だが、ある日、その方が良かったということに気づく。第一あまりにも年が離れ過ぎているし、いつまでも続かない以上、いつかは別れなければいけない。絆が深くならないうちに離れた方が良かったと。

数週間後のことである。
街中で、少年とすれ違った。同年代の少女を連れていた。少年は気づかなかった。
貴子は声をかけることもなく黙って見送った。不思議と前に感じた、あの憎しみの情は起こらなかった。むしろ、少年の新しい恋を祝福してあげたい気分になった。だが、同時に、なぜが、前より少し歳を取り、取り残されてしまったような寂しさを感じずにはいられなかった。

 友人の京子が訪ねてきた。ベランダで二人、春の夜空を眺めながらワインを飲んだ。
「生きるって切ないね」と貴子は独り言のように呟いた。
「何を今さら、切ない恋でもして失恋でもした?」
「うん」とうなずいた。
「誇り高き貴子にしてはやけに素直ね」
「誇りはもうどこかに忘れてしまった。今は悲しみが止まらないの」
「ワインを飲んでも?」
「ちゃかすのはやめてよ。真面目に話しているんだから」
「ごめんなさい。恋したと聞いて思わず嫉妬してしまったの」
「いいよ。でも不思議ね。切ない恋をして破れ、悲しみが止まらないのに、若いときみたいに取り乱さず、こうやって、素直に話せる自分がいるの」
 二人の頭上には、満天の夜空が広がっている。切ないほど美しい。




作品名:悲しみが止まらない 作家名:楡井英夫