空白の英雄6
ミーファには夢のような3ヶ月だった。
たくさんの町とたくさんの人を見てきた。それは酒場に来ていた男たちが語った故郷の数にこそ及ばないが、男たちが語った以上に素敵な町並みがそこにあった。初めて見る景色やファッションに頭がいっぱいになる。夢や物語のような旅を、旅の綺麗な部分をたくさん体験した。
だが夢は長く続かなかった。
「何度言わせるんだ」
珍しくソファーのない宿部屋だった。トオンは壁にもたれてベッドの上のミーファを見ていた。
「明日からお前はこの宿屋で住み込みで働くんだ」
「嫌よ…」
ミーファは頑なに首を振った。強く枕を握りしめて必死に抵抗していた。それでも淡々と彼は話を続けた。
「俺は明日、町を出る」
「絶対嫌よ…」
昼から何十回、何百回とこのやり取りを繰り返していた。
今はすっかり日も沈み、猫の目よりも細い月が微かに空に浮いていた。星の少ない暗い夜だった。
「連れてってよ…」
「魔獣の巣窟を突っ切る。お前を連れていけない」
「なら遠回りして…」
「そんな時間はない」
「ばかぁ」
ミーファはまた泣き出してしまった。泣いても泣いてもトオンは折れてくれない。ミーファを置いていくと言って聞かない。ミーファは置いていかれることもトオンと離れるのも悲しかった。彼女はそれを受け入れられない。どうにかして彼と一緒にいたかった。駄々をこねても時間だけが無駄に過ぎていく。頭をフル回転してトオンを説得する方法を探した。探せど探せどミーファが魔獣に立ち向かえないことがネックで、どれもこれもうなずいてはもらえそうになかった。
「じゃあここに居ようよ」
それは突拍子もない、だがごく自然なミーファの考えだった。
「ここで暮らそうよ。ここはいい町でしょ。ここは魔獣が出たことないんだよ。私、ちゃんとトオンの言うとおり働くから…だからそばににいてよ。ここに住もうよ……」
トオンは耳を疑っていた。
ひとつの場所に留まることなど考えもしなかった。その考えもその場所も、今まで彼にはなかった。
トオンは考える。
剣を持たない生活を。
平和な未来を。
平穏な暮らしを。
ミーファとの未来を――。
だがそれは喉から湧き上がる違和感にかき消された。トオンは咳き込んだ。そのまま壁を滑るように足元から崩れてしゃがみこんだ。
喉が裏返るような酷い咳の音が部屋中に響いた。止まない咳にミーファは驚いてトオンに駆け寄った。
「トオン、大丈夫?」
「駄目だ!」
トオンは胸の痛みを切り捨てるように言い放った。
「俺は明日この町を発つ。それは絶対だ!」
トオンは立ち上がると、軽く押すようにミーファを突き飛ばしてベッドに横たえた。そのまま彼は黙り込んでしまった。
「トオン」
ミーファも同じベッドに潜り込んだ。本当にトオンが出て行くなら、少しでもそばにいたかった。そっとトオンの背中に身を寄せた。たったこれだけでいいのに…すぐにそれさえできなくなるだろう。
「女はすぐに固執する」
ミーファにはなんのことかわからなかった。ただすごく悪いことをしたような気がした。
「ガキのくせに…」
そっとトオンの背中から身を離した。急にその資格がないように思えた。
「ごめんなさい」
謝る。それしかできない。何を謝っているのかはミーファにもわからなかった。
「私…足手まといね」
謝る理由を探したが、ミーファが思っていた以上に多い。
「ごめんなさい。ついてきてごめんなさい」
トオンからの返事はない。
「迷惑かけてごめんなさい…」
広い背中だけではなにもわからない。
「ごめんなさい…」
それでもトオンは何も言わなかった。
「あ、あの…。お財布…返すよ。ここに置いとくね」
ベッド台の上にトオンの財布を置いた。それはトオンが持っていた時に比べてスッキリしていた。
「トオン、あのね…」
何も言わないトオンの背中にもう一度身を寄せた。柔らかな体温が伝わってくる。
「トオンと旅したの…私とっても楽しかった。…そりゃトオンは邪魔に思ったかもしれないし嫌だったかもしれないけど…。私は楽しかった。酒場で働くよりもずっと…楽しかった…」
トオンはどんな反応も返さなかった。それが辛くて、悲しくて、ミーファは見捨てられたような気分だった。泣き出しそうな自分を抑えつけて、ミーファは話し続けた。
「だから…」
懸命に伝えようとした。今、ミーファの願いはひとつだった。
「嫌いにならないで」
叫びたいくらい大声で伝えたかった。実際は、声に出すことで精一杯だった。我慢していた涙が少し零れてシーツに染み込んだ。悟られないように目をこすり、震える声を抑えこんだ。
「あの……もし私のこと許してくれるなら…いつかここを訪ねてほしいの。いつか……終わったら……ここに。それまで頑張るから」
トオンは何も言わなかった。どんな返事も反応も返しはしなかった。
時はトオンを蝕んでいた。ミーファの願いを叶えられないことは彼が一番よく知っていた。どの願いも叶わない。ここに帰ることも、共に暮らすこともできない。共には進めない。仮にどちらかを選んでも長くは続かないだろう。いや、もしかしたら選べないのかもしれない。
待っててくれとは言えなかった。そんな希望もなにもない言葉でミーファを縛り付けることはできなかった。何よりも彼女の心の中に自分を置いていくことが、トオンはたまらなく許せなかった。
――忘れてくれ!――
トオンの願いはひとつだった。
▼
ミーファが目を覚ましたのは夜明け前だった。
眠らないでおこうと心に誓っていたが、いつの間にか眠りに落ちていた。彼女は慌ててトオンを探した。ベッドには既にいなかった。どこにも彼はいない。
部屋にいるのはミーファと、ミーファの荷物と昨日のままのトオンの財布。それだけだった。
壁にあったあの錆びた大剣は、ない。
ミーファは財布を握りしめて部屋を出た。見送りたかった。それさえ叶わないなんて考えてなかった。財布まで置いていくとは思わなかった。渡さなくてはいけない。トオンのために――。
宿を出ようとしたら2人の従業員に捕まった。床に押さえつけられ、ミーファは自由を奪われた。ゆっくりと奥から宿の女主人が近づいてきた。
ミーファは無我夢中だった。何が起きているのかわからなかった。
「今なら間に合うかもしれない。トオンのところに行かせて! なんでこんなことするの!」
「あんたはウチで住み込みで働くんだ」
女主人は財布を持つミーファの手首を踏みつけた。あまりの激痛きミーファは手をはなしてしまった。
「あんたじゃ追いつけやしないよ。あの老いぼれは随分前に出てったんだ」
女主人はトオンの財布を拾い上げた。舐めるように中身を確認すると自らの懐にしまいこんだ。
「返して!」
従業員の手から逃れようともがいたが、腹を蹴られ、頭を押さえつけられた。
「あんたのもんはあたしのもんだ。聞けないなら地下に閉じ込めちまうよ!」
女主人の顔が歪んで見えた。なんて愉快そうに醜く笑うのか、ミーファにはわからなかった。
ミーファを引っ張る従業員の腕を噛んでやった。統制の乱れた従業員から這いだすと宿屋から逃げ出した。必死に走った。
町から出ると、町の中から泥棒だとか捕まえろとか慌ただしい叫び声が聞こえてきた。