さよならの縁は砂糖まみれ
マフラーをあげるよ、とその言葉が切欠だった。話題のアニメ映画を見た帰り、オタク談義に花を咲かせる、通常予定の午後である。我々は二人、そういう関係で、プラスで数少ないオタクな話が出来る相手で、すべてがすべて、我々はうまく行っていた。うまく行っていた、のだ。それは、多分彼女も私も同一の感情を有していた。だが、そういう雑多な感情というのは時として無力だ。彼女が促すようにコーヒーショップの入り口を指差す、その首元でマフラーが揺れている。緑色のマフラー。
メイドインフランスのお洒落な、しかし常軌を逸した雰囲気の、だって緑色のマフラーなんて滅多にお目にかからない、それでいて彼女にはしっくりきている。秋から冬への衣替えの日、タンスの奥で見つけたそれを彼女は、あら懐かしい、高校時代グレーのブレザーにぴったりだったの、なんて巻いて見せて、ああなんて可愛いんだろうと私は惚気たものだった。しかして巻いてみると、タンスの少しかび臭い不精なにおいに混じって彼女の体温、彼女の学生時代なんて露と知らない私は少し妬いてしまって、すねて彼女を困らせた。その時彼女は言ったのだ、思い出にする時はあなたにあげる、と。
ホットコーヒー二つ、カウンタに並べて、コートを脱ぐ。彼女はマフラーを外さない。窓の外のオープン席で、ふさふさの毛をした犬が尻尾を振っていた。ゴールデンレトリバーね、彼女は犬にも明るい。その癖、フランスとスペインの位置を間違える。たたたっ、と小さな女の子がミニスカートを翻して、自分よりも大きな犬に飛びついた。怒らないのかな、ガラス越しに不安なんて他所のこと、犬はばうわう尻尾を振って喜んでいる。すりすりと擦り合わせた頬をべろり舐めて、ご機嫌。無意識に口に含んだコーヒーは思ったよりも温く、期待していたよりも苦かった。砂糖貰ってくる、と私は彼女に背を向けた。言い換えれば、目を逸らしたい事柄に。
いつもの午後。いや、我々はおそらくいつもより幸せであった。先ほど見た映画だってモブまで手の込んだ書き込みで、我々は大満足で、風は温かく、少女も犬も可愛らしい。けれど、幸せも感情も入り込めない領域がある。我々はそういうものを所有していて、それはいつだって我々を苦しめる。だけれども、手放すことは出来ないのだ。幸せより感情より優先されるべき、我侭な何か。あまりに大きな、しかしこのホットコーヒーの苦味のように、手にしたスティックシュガーでもしくは中和できるかも知れないもの。
席にかえるのが怖いな、なんて恐怖は一瞬で、お尻は普通に椅子に座ることが出来る。スカートの襞を直す為に一度座りなおして、そうして気づく。苦いコーヒーを難なく飲み干す彼女の首に、もうマフラーは無かった。一瞬だって、事態は私を待ってはくれない。目を離してはいけないものに目を背ける、臆病者にいつだって世界は厳しい。ジーパンの破れた部分を隠すように畳まれた、緑色に視界が支配される。ああ、もう終わりの時間なのだ。手の中で砂糖がくしゃりと音を立てる。気づかない振りをして、その袋の先を破った。紙コップの蓋を開けて、中身を黒い液体に零す。甘いのは嫌だな、と半分以上残して、とり忘れたマドラーの代わりに蓋を閉めてからゆるゆると振る。口を付けて、小さく深呼吸をした。
マフラーをあげるよ、彼女は終わりの言葉を繰り返す。ともすれば泣いてもいい悲しみの中で、我々は無表情を保っていた。目線は外の犬と少女をまだ追っている。そうしてお互いを見ないまま、彼女は私に緑色のマフラーを差し出した。見もせずに、手を伸べて、触れてしまった指先が痛い。犬と一緒に飛び跳ねる少女の、ミニスカートから除く小さな足。あれがすらりと伸びた頃には、我々のような感情を抱くのだろうか。感傷的な気分だわ、彼女の小さな呟きにコーヒーの液面が揺らいだ。そうね、受け取ったマフラーを、膝に乗せると僅かな温かみ、感傷的ね、私も繰り返す。
それから数分は沈黙で、ガラス越しに犬と少女が戯れる音ばかり、やるせなくコーヒーに手を伸ばす、と、「あ」、半分以上残っていたシュガースティック、カップに引っかかって、膝の上にさらさらと零れてしまった。膝の上、つまりは緑色のマフラーの上。ごめんなさい、払ってくるわ、ばたばたと店の外へ駆ける。ドアを開けると犬の声がよく響いている。温かい風が心地よい。少女が、犬にまた飛びついて幸せみたいな笑い声。確かに、我々にもあんな笑い方は出来た時代が有った。もしかすると、今だって。
マフラーを叩くと、落ちる砂糖が日差しに光った。緑色に、細かな粒が絡まって、きらきら。顔に近づけると、彼女のにおいがする。これが、今日から、私の思い出なのだ。
作品名:さよならの縁は砂糖まみれ 作家名:m/枕木