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桜田みりや
桜田みりや
novelistID. 13559
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空白の英雄5

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トオンは眠れなかった。
こんなに早く月日が流れるとは夢にも思わなかった。彼の人生はただただ緩やかに流れる時をジッと耐えるものだった。最近は驚くほど早く時間が過ぎる。こんなかけがえのない時間を手に入れたときに王の進軍を聞いた。
眠れるはずがなかった。
彼はミーファを起こさぬよう身を起こした。いつの間にかミーファは隣で寝るようになっていた。それが当たり前……慣れとは恐ろしいものだ。いつしかトオンも断ることを忘れていた。
そっと眠るミーファの頭を撫でてみた。無邪気に眠る様は本当に愛らしい。軽く握った手が口元にちょこんと置かれ、茶色の髪が緩く波打ち彼女を包む。いつもこんなにおとなしければと、トオンは苦く笑った。
しばらく彼はミーファを眺めていた。そして思う。家族がいたらこんな風に暮らせるのだろうか。そんな事が脳裏によぎる。側に誰かがいる。その人は帰るべき場所で待つ。時にはついてくる。そして彼の身を案じてくれる。
それは幸せか。
結論を出してしまいそうな頭を振り“いつも”に戻ろうとした。これ以上は考えを止めた。それは彼が知らなくていいことだ。彼には手に入れることはない空想の産物だった。
トオンの行くべき場所は既に彼を待っていた。
これ以上ミーファの隣にはいられない。そのことは彼が一番よくわかっていた。それでも何故か手放せない。そんな自分にためらっていた。
寝ているミーファの頭をもう一度撫でた。
この娘は可愛い。色眼鏡でみてはいるがそれでも世間一般には可愛いほうだろう。気立てもいい、優しい娘だ。もし何かあっても誰かに助けてもらえるだろう。それ以前にミーファには1人で生きていけるだけの力はある。大丈夫だ。自分が居なくてもこの娘は生きていける。トオンにはそう思えた。そう自身に言い聞かせた。
彼は知らない。人に群れて生きてこなかった彼には知る由もない。人は支えがなければ生きてはいけないことを彼は知らない。ミーファの支えがトオン自身であることも知らない。わからない。
ミーファが寝返りを打った。ついさっきまで肩まであった毛布が胸のあたりまで下がってきていた。普通なら毛布を掛け直すだろう。だがトオンにはそんな発想はなかった。長い人生の中で、彼には掛け直してくれる人も、そんな相手も今までいなかった。
だからただただミーファの背中を見ていた。背中も半分見えるような寝間着だった。ふわふわした髪の奥に首筋や背中が見える。滑らかな、若い白い肌に絹糸のような髪が絡まる。綺麗な髪だ。
急に昔の記憶が蘇る。
昼下がりの空中庭園。
隣にいた蘭の女(ひと)。
彼女のまっすぐな金の髪が蜂蜜色に煌めいて、まるで女神か妖精のように美しかった。あの日トオンは彼女の髪に触れたくて堪らなくて、でもそれはできなかった。
手を伸ばした。眠るミーファの波打つ茶色い髪を一房すくいあげた。柔らかい布に触れているようで、ひんやりと手から滑り落ちた。
それが合図のようにミーファはまた寝返りを打った。
ミーファは寝相のいいほうではない。寝返りのたびに毛布が下に下にズレていく。
顔、肩、鎖骨、腕。華奢な体つきと言えばそれまでだ。が、トオンに比べれば折れてしまいそうなか細い体つきに胸がかき乱される。本当にこれが生きている人間の体なのか。細すぎやしないか。白すぎやしないか。彼女は生きているのか。
トオンはか細い腕に触れてみた。ひんやりとはするが人の温かさを持っていた。その腕は焼きたてのパンのように柔らかい。おそらく腕だけではないのだろう。女性の体が想像以上に柔らかいことはトオンも知っていた。
女性か、と小さくつぶやいた。
ミーファを子どもだと思う気持ちは変わらずにある。あのタオル一枚でのってきたときも、子どもが何をしているのかと相手にもしなかた。だが今は心のどこかでそう思っていない。1人の人間として見ている。
もしかしたらやましい気持ちすら持っているのではないだろうか。
「…トオン」
起きたのかと思い身構えた。だが彼女からは規則正しい呼吸音しか聞こえない。
トオンは頭をかきむしりながらベッドから離れた。おもむろに服を脱ぎ捨てるとバスルームに入っていった。
「何を考えているんだ俺は」
冷たい水が彼の頭から肩から伝って排水口に流れていく。水はいい。流れていくだけだ。だが人は人生はそうはいかない。ぶつかって、けつまづいて、立ち上がって……また転ぶ。水のようにはただ低きに流れない。
急に胸が痛んだ。心臓を鷲掴みされたような、肉をかきむしるような痛みが胸に走る。トオンは体中の傷の中から肩の古傷を選んで指でなぞらえた。彼からは見ることができない裏側の傷だが、指にわかるくらいの溝ができている。
何もかもが消えていくように、傷ができた日のことが鮮明に蘇る。あの魔物が、逃げる女の背に立てようとした爪の痕だ。言わば女の命の代償とも言える傷だった。
今夜ここを立とう。
トオンは結論を急いだ。このままでいるわけにはいかない。このままぬるま湯に浸かるわけにはいかない。このまま彼女といるわけにはいかない。とにかくこのままではいけない。
トオンは顔を上げた。水が容赦なく顔を打つ。
「これでいい」
これがいい。この容赦ない雨のように、さざめく世界を歩いていこう。今までのように――。
ほてった考えも体も冷えてきた。
トオンは洗うように顔を擦った。水を止めようと手を伸ばしたとき、ドアが開いた。
「トオン!」
ミーファだ。ミーファが飛び込んできた。彼女は酷く錯乱していた。寝間着が濡れるのもかまわずにトオン詰め寄る。
「おい、どうした」
「嫌っ嫌なのっ!」
なだめようにも暴れて話もろくに通じない。押さえつけようにも彼女の腕の細さに戸惑った。少し握れば折れてしまいそうな白い腕を掴めなかった。
だから散漫した。だから足を滑らせた。
トオンは濡れたタイルに足を取られてミーファごと転げた。
ミーファをかばってトオンは背中をタイルに打ちつけた。少し痛むが幸いにも怪我はなかった。
「トオン、トオン」
ミーファはトオンの体を揺った。痛がる彼を心配して少し平静になっていた。それでも彼女は自分がトオンの腹の上にいることには気づかなかった。
「……大丈夫だ」
トオンは立ち上がろうとしたが、それが叶わないとすぐに悟った。
「よかった…」
永遠と振る人工の雨がミーファとトオンを濡らしている。濡れた髪が邪魔でよくわからないが、ミーファは泣いているようだ。
「トオン」
「どうしたんだ?」
ミーファは濡れた手をおそるおそるとトオンの顔に近づけた。
触れた指先は氷のように冷たく、雲のように柔らかい。
「行っちゃわないよね?」
トオンの心臓が跳ね上がる。彼女の言わんとする内容が怖かった。
「また…私を置いて……行かないよね…」
心を見透かされた。そんな気分だった。女の勘と言うやつかもしれない。
ミーファの問いに答えることはできなかった。真意を伝えることをためらうくらいに、このときのミーファはもろかった。
作品名:空白の英雄5 作家名:桜田みりや