私たちの静寂
彼女の細い指が私の体を這う度に私は鳥肌を立てた。服は着ている、それなのに体を直接触られているような感触。気持ち悪いとは思わなかった。むしろその逆で、私は快感を得ている。おかしい、相手は同性なのよ。彼女の左手は髪を撫で、頬を触り、首筋をなぞる。右手は太股に添え、私のスカートを捲っていた。動作一つ一つが私を追い詰める。
「男の体を知らないから、綺麗なんだね。あたしこんな綺麗な体見たことない。知ってる? 白雪姫の王子様は死体愛好家だった。なぜかな、やっぱり青白い肌が素敵だから? それなら血を流したらもっと素敵でしょうに」
彼女はそう言って制服のスカートのポケットからカッターを取り出した。私の手首を掴んで冷たい刃をあてる。皮膚を引き裂かれる感覚に私はただどうしてこんなことに、としか考えられなかった。
そもそも彼女、水澤葵はクラスで浮いているわけもなく、むしろ目立つグループにいてはしゃいでいるような女だった。背が高く猫目で長い黒髪、そして美人。昔から水澤葵のようなタイプは大人しく、一人でいるようだと相場が決まっているがそれはあくまでも漫画や小説の話。実際そうかと言われたらそうではない。美人なのだ、周りが放っておかないだろう。まあ今の場合の「周り」とは女だが。教室に男子はいない、何故かというとここが女子高だからだ。男子がいれば水澤葵の周りにはさらに人がいただろう。
さて私はというと地味すぎず派手すぎず、なグループにいる。「普通」という場所に居座りながら私は女達をどこか傍観していたのだ。女とは実に面白いもので悪いことも、良い事もたくさん見えてくる。だからこそ私は「無害」であろう「普通」を選んだ。目立つ事は悪くない、悪くないのだがその分リスクが高い。下手な行動をしたらなにもかも崩れ落ちる。地味であることもまた無害とは言えない。確かに大人しくしておけば何も問題は起きないが、周りからの偏見はすごいだろう。つまらない、暗い、近寄りにくい。残念ながらこれが一般論だ。それらに堪えられる程私は強くない。私は弱い人間なのだ。ある程度明るくて下手な行動はしない、周りにも適応しやすい普通な子。それが一番だろう。ああ今日も派手なグループからのけ者にされた女の子が一人でいるわ。「孤独」と「無」、それが人間にとって恐怖だと私は思う。だって私がそうだもの。
「まだ残ってるの? 宮坂さん」
放課後、私一人で教室に残っていた。水澤葵はどうやら忘れ物をしたらしく少し急いだ様子だ。私と水澤葵は「水澤」と「宮坂」で名簿が前後なので水澤葵はこちらに笑顔を向けてから机の中から参考書を出した。明日塾のテストなんだよね、と言いながら参考書を鞄に入れる。そしてその鞄を机に置いて、彼女は椅子に座った。私には椅子に座る意味がわからず、正直早く帰ってほしかったのだが。
「ねぇ、宮坂さん。宮坂さんって、見るだけなんだね」
数分後だろうか、水澤葵は先程の笑顔と違う、どこか嫌味のある笑顔を見せた。大きな猫目が私を捕える。その目はまるで色欲に蝕まれているように見えた。なんだ、この女。私が何も言わないでいるとさらに言葉を紡ぐ。
「見る……いや、傍観の観、観察の観。そっちの観る、がいいかな。宮坂さん、いつも人を観察するでしょう。あたしの事も観察していた、で間違いないね。あら、驚いてる?」
「……何が言いたい」
「あはは! その口調は素かな? あたしが観察してる時はおっとりした子かと思ったけど、仮面かぁ。まあ賢い生き方だね。あたしと同じだ」
水澤葵が何を言いたいか私にはわからなかった。私が他人を傍観する事に唯一気づいていた、そして彼女は彼女で私を観察していた?
「いいわ、傍観は否定しない。じゃあ答えな。あんたはなんで私を観察していたの。悪趣味だわ」
「やだ、宮坂さんに言われたくないなぁ。あたしは宮坂さんだけを観察していたんだよ」
「……どうして」
「宮坂さんが好きだから、で信じてくれるかな」
気持ち悪い。私は水澤葵と会話をして水澤葵の事を誰よりも気持ち悪いと思った。「観られていた」ことが気持ち悪いのではない、好きだと言われたことが気持ち悪いのではない。水澤葵という人間、この他人を嘲笑い常に色欲に塗れているような目を持つこの女の存在自体が気持ち悪かった。だがそれは同族嫌悪に近いものだろう。私もこの女も、生きている事自体を偽造している。本性が出るのは似ているから。それだけ。
「ふざけんな」
「あは、嘘ってわかるよね。でも宮坂さん自体に興味があったのは嘘じゃないんだ。それが好きだからかはわからない。だけどそういうのってはっきり知りたいよね。それで、今の状況が漫画や小説だったらって考えたんだ。多分主人公の相手役はこう言うんだ。『試してみようか』ってさ」
水澤葵はそう言うと私の手を引っ張って教室から出た。これから何をされるか、その想像は少しだけ出来ている。だがしっかりと捕まれた手を私は振り払うことは出来なかった。
そして私は今保健室で水澤葵に体を触られている。これは性交ではない、ただの「じゃれあい」だ、と猫のような彼女は言った。キスをされ、舌を絡ませる。同性でこんなことをするなんて誰が予想したのだろう。
「切るよ」
水澤葵は私の腕にカッターを押し当てて横に引いた。私の病的に白い肌は切れて血が滲む。唇を噛み締めてその痛みに堪えるが涙が出てきた。だが水澤葵はそんな私をおもしろそうに見るだけで、腕を切ることをやめなかった。私の腕にいくつか傷が出来た後、彼女は私の腕から流れる血を自らの舌で舐める。
「ひっ……!」
「やだ、怖がんないでよ。ベッドに血が落ちたらいけないから舐めるだけだよ。ああ、それにしても本当綺麗だね。あたしは自分が他の女や男から綺麗って言われてるのは知ってる、だけどあたしにとったら宮坂さんが一番綺麗。それに体中から血を流したらもっと綺麗だろうなあ。ね?」
血を舐めながら笑う水澤葵は不気味だった。彼女の唇に私の血が付着して赤く染まる。私は殺されるのではないだろうか、カッターを首に押し当てられながらそう思った。
「宮坂さん、もう普通には戻れないね」
私の望んだ「普通であること」それはなんなのだろう。私はすでに異常だったのか、他人を嘲笑う水澤葵と似ている私は異常なのか。そうかもしれない、私も傍観者を名乗りながら他人を嘲笑っていた。水澤葵を異常者と表現するならば、私も異常者。私はもう何も話さなかった。それを察したのか、水澤葵も話さなくなった。ただ静寂だけが存在している。
首に押し当てられたカッター。私が殺されたか生かされたかどうかは、もう覚えていない。