春霞と青の日々
春の霞がかったような空気もやや薄れ、日差しが日毎に強まってくる時期。地下鉄構内の階段をゆっくりとした足取りで上りながら、少年はそんなことを考えていた。両手はジーンズの後ろポケットの中に突っ込み、口の中でチューインガムを転がしている。
――そうそう、例えば微生物なんか……。
「あ、すいません」
肩が当たった相手に頭を下げ、彼はポケットから手を出し、手すりにかける。
――余所見してたのはオレじゃないんだけど。
彼はやがて、地上へ出た。眩しさに目を細め、一瞬立ち止まりかける。しかし、すぐに後ろからやって来る人の群れに押し出されるようにして、再び歩き始めた。
――そうなんだよなあ。どうして、オレは人間なんだろう。
少年はぼんやりと考えながら、再びポケットに手を差し込んだ。自分では意識していないような、ごくごく自然な動作で。彼は当てもなく歩いている。道路は込み合っていて、クラクションの音がどこかで鳴り響いている。歩道は人で埋め尽くされ、足取りも忙しなく、落ち着かない雰囲気が漂っている。少年はその人ごみの中を、一人で歩いている。
――ん。
彼の目は、駐輪場の自転車にとまる、一羽の蝶に吸い寄せられた。その空間だけが、彼の目にはなんとも鮮やかに写ったのだ。ぱたぱたと開いたり閉じたりする、その飾ることを知らない率直な動作に、彼は非常に感嘆した。
――そうそう、そんな風に。
彼は一人で肯き、しかしその自転車の傍まで行くようなことはしない。人ごみの中を縫って、そこまで歩くのは大変だからだ。彼の手は相変わらずポケットの中に納まっている。
――そう、あんな風に自然な動作で……、人間には出来ない。
彼は再び歩き出した。
車道はよっぽど混み合っているのか、遠くのほうで誰かが叫ぶ声も聞こえる。歩道を忙しげに歩く人たちは前だけを見て、すたすたと歩いていく。その中で少年は、時折思い出したようにふっと、空を見上げたりなどしている。
――皆、忙しいんだな。
彼は、空の青を噛みながらそう思う。
――オレだって、学校行かなきゃいけないんだけど。
『ちりりん』
彼のすぐ後ろで、そんな音がした。振り返ると、自転車に乗った女子高校生が彼を見下ろしていた。
「あ、すいません」
彼は言いながら、道の脇に避けた。自転車に乗った女子高生は、彼を一瞥してから、颯爽と去って行く。
――そうなんだよなあ。
彼はちょっとの間自転車を見送っていたが、やがて気を取り直したように歩き出した。
――オレだって、そうやろうと思えば、やれるんだ。でも、……。
少年の足取りは、軽くない。両手が自由でないからかもしれない。しかし、彼はまったくそれを気にしていない。むしろ、軽快な心持で青空の下を歩いているのだ。
彼は自由だった。
何をしても、何もしなくても、いてもいなくても、どちらでも良かった。それが、彼にとっては何よりの幸福だった。
――でも、何かが違うんだよなあ。
彼は幸福な気持ちで、しかし眉をひそめながら歩いている。彼の足はいつしか街から遠ざかり、人気の無い川沿いを踏みしめていた。川は一見すると透明で、澄んでいた。昼を過ぎれば少しは賑わうであろう川沿いは、早朝の現在、ひっそりとしている。
――ゾウリムシなんかどうかな。
少年は川辺にしゃがみこんだ。川面をじっと見つめている。
――若しくは、そうだな、ええっと、……マリモなんかどうだろう。
「あれは確か、天然記念物だから……」
――きっと大事に保護されるな。
少年は一人で、川面に映った自分と会話をしている。
――でも、駄目だ。人間に保護されるような物じゃ、駄目なんだ……。もっと徹底的に、人間からかけ離れなくちゃ……。
そのとき少年は不意に、大学で受けている、生物学の教授の顔を思い出した。
――蛙も良いな……。ああ、でも駄目だ駄目だ。子供達にいたずらされちゃ敵わん。
しかつめらしい顔をして、少年は川辺に寝そべることにした。しかしその前に、腕時計を見ようと、ポケットから手を出した。
「…………」
少年は、それを凝視した。
――なんだろう、これは? どうも、よく分からないな。
少年はとりあえず腕時計を確認する。
――うん、八時二十分だ。もう、一講目に間に合わないな。
彼はいつもの習慣でポケットに手を戻そうとし、慌ててそれを止めた。そしてまた少し考えて、その手をポケットに戻した。その表情は、先ほどとは打って変って晴れやかだ。
――そうだな、ええっと……。植物も良いな。高山に生えてる奴なんかどうだろう。人間なんて来ないような、高い場所に生えてれば……。
空は青い。彼の口の中も青い。彼のポケットの中も、青い。
――真っ青だ。
彼は期待に満ちて、目を閉じる。夢の中も、青色で染まっているような気がした。