スリリングな恋の結末
友達のまゆみが独り言のように「ねえ、一度でいいから心も身も燃えるような恋をしたいわ」とぼやくのを、かおりは傍らでじっと聞き、内心、勝ったと思った。
「どうしたの? にこにこして」とまゆみは聞いた。
「別に」
「嘘ばっかり! 月に一度の飲み会だというのに行けるのか、行けないのか、分からないと言うし」
「だって、用があるもの」
「どんな用よ。まさか彼氏ができたの?」
かおりはまんざらでもない顔をした。
「いいじゃない、そんなこと。飲もうよ、まゆみ。どんどん飲もう」とまゆみのグラスにビールを注いだ。
かおりはいつもまゆみの後塵を拝していた。それはいつも石橋を叩かなければ気の済まない用心深い性格が大きな原因だった。走りだそうとしたき、まゆみはとっくに走り出している。しかし、今回は違っている。
今回、かおりは石橋を叩かなかった。
「恋は思い立ったなら吉日よ。思いっきりなかったなら、だめよ。他の女にとられてしまう。残るのはクズみたいな男ばっかりよ」という占い師の言葉に一大決心したのである。
かおりはわき目もふらず恋の道を走った。
かおりの父はありふれたサラリーマンだった。朝早く出かけ、夜遅く帰宅する銀行に勤務している。サラリーマンという型にはまったような生き方している。質素倹約につとめ、五十過ぎてやっと郊外に小さな家を建てた。そんな父を誇りには思っていたが、同時に何か物足りなさを感じていた。結婚するなら、堅実なサラリーマンじゃない方がいい。その前に燃えるような恋をする……。それが密かに描いた夢だった。
短大卒業後、お茶の水に本社がある出版社に勤めて五年になる。
会社入って、二、三年くらいは男から声をかけられたり誘われたりもしたが、ここ一、二年はさっぱり。お高くとまっているとは思わないが、周りの男はどうもそんなふうに見ている。
社内でもいい男と言われる男と交際したが、突然、彼女の方から交際を止めた。
「どうして、あんないい男なのに振っちゃうの?」と友達から言われるとき、「だって、金づかいが荒いもの」と彼女は答えた。
また、父の強い希望により東大出のエリート銀行マンと見合いし、結婚寸前までいったが、それも断った。
父が「なぜ?」と詰問すると、かおりはこう答えた。
「何が夢と聞いたら、お金をこつこつと貯めてマイホーム建てることだっていうもの。夢がないから幻滅した。それにあのジャガイモみたいな顔も嫌い」
かおりはとりたてていうほどの美人ではないが、品の良い顔立ちをしている。
本当は短大よりも大学へ行きたかったが、「女が学歴をつけたらいい結婚はできない」という父の猛反対で、短大で我慢した。ずっと父の言うとおりに生きてきた。これといった不満はなかったが、生涯の伴侶こそは自分の思いで決めたいと堅く心に決めていたのである。
ある出版物のパーティがあり、急遽かおりが代理として出席することになった。そこで、一人の男に出会った。髪はぼうぼう、髭をはやし、風体は一歩間違えれば、浮浪者と見間違えられそうな男である。しかし、話し方は滑らかで、そのうえ教養もあった。酒も入っていたせいだろう。普段なら決して自分の方から話しかけたりしないかおりであったが、心に何か惹かれるものを感じ「何をなさっていらっしゃる方ですか?」
「ライターです」
「本を書いているんですか?」
「まあ、それに近いかな」と男の歯切れは妙に悪かったが、かおりは気にとめなかった。
かおりは酒に酔っていただけではなかった。自分の夢にも酔っていたのである。普段のかおりなら、その歯切れの悪さに胡散臭さを感じたに違いないが、酔っていたために理性の働きが鈍った。そのうえ、心のどこかで、彼の不思議なところに魅かれた。
パーティの日以来、何度かデートした。いつもサングラスをつけ、帽子を被っている。どっからみても、普通の人間には見えない。あるとき、かおりは尋ねた。
「どうして、そんな格好をなさっているの?」
男は動じる様子もなく、
「実を言うと狙われているんです。ちょいとやばいものを書いているんで」
「国家秘密とか、企業秘密のようなこと?」
「ええ、まあ、それに近いことかな」と男は言葉を濁した。
この平和な日本。のどかで危機の片鱗も見られないのは、実は仮の姿で、その影の世界で陰謀や企みとったものが蠢いている。はらはら、どきどきする話ではないか、とかおりは想像した。
「悪いことじゃないでしょ?」と小声でかおりは尋ねた。
用心深い人間は、一度、信頼してしまうと、荒唐無稽な話でも信じてしまうことが多い。かおりもその例外ではない。
「もちろんです。みんなのために書いています」と期待に応えた。
その日から、かおりはヒロインになった。この人とともに生きよう。正義のために手に手をとりあって危険な道を歩もう! 危険な、スリリングな恋をしている。まるで、映画の中のヒロインのようだ。彼に比べれば、世間の男はみんな何か気の抜けた阿呆にしか見えない。
三度目のデートのときだった。
かおりは買っておいた絹の下着を身につけていった。何かがあるかもしれないと思ったからである。
二人で電車に乗った。すると、突然、見るからにプー太郎のようなオッサンが、彼に向かって、
「てめえ、赤井だろ! え! そうだろ!」
彼は違うという身振りをしたが、すかさず、彼のサングラスをとった。
「やっぱり、赤井じゃないか! 畜生! てめえのせいでどれだけ損したと思っているんだ!」と殴るは蹴るは暴行を繰り返した。が、彼はひたすら「すいません」と謝るだけ!
かおりはいきなり映画のヒロインから引きずり降ろされたうえに、殴られたような気分だった。
プー太郎がいなくなると、彼は子供ように泣きだした。そんな彼に幾分かの憐憫さを覚えたものの、「あなたは一体何をやっている人?」
「競馬の予想屋なんです。でも、近頃、ちっとも当たらなくて…」
周囲から失笑の声がかおりの耳にも届いた。かおりは自分のことのように思え、思わず次の駅で降りた。
作品名:スリリングな恋の結末 作家名:楡井英夫