翼
画家の遠山昇といったら、今でこそ知らぬ者がいないほど著名な画家だが、若い頃は無名で、それも一時期は絵の道を捨てようかと迷うほど悩んだときもあった。その時、一人の女性に出会ったことで、運命が大きく変わった。
女性の名はナオミ。優しい娘、これといってとりえがなく、いつしか、身を売って生業を立てていた。ちょうど、その時の彼は、根無し草のように生きていた。
偶然、二人は出会った。遠山は、似合いの二人だと思って、いつしか一緒に暮らし始めた。しかし、何かが引っかかって、ナオミを抱くことはなかった。肉体関係のない奇妙な同棲を始めた。ちょうど四月になった頃である。
同棲を初めて半年経った。季節は秋。
ある日、ベランダに雀が止まっていたのをナオミが見つけた。じっとしたままだった。
「この俺のようだ。翼に傷を負っている。どうせ死んでしまうんだから、ほっとおけ」と遠山は言った。
「一度、空を飛べなくなった雀は二度と飛べない」と言い張った。
ナオミの手はそっと掴まえた。その手のひらのうえで雀は震えていた。
「生きているんだもの、そんなかわいそうなことはできない」と言って、ナオミはその雀に餌を与え続けた。数か月後、翼が治った。が、雀はなかなか飛ぼうとしなかった。
ナオミの励ましもあって、再び、遠山は絵を描き始めた。
冬のある日、ナオミが遠山に言った。
「夢を見たの。この雀が大空に飛んでいく夢」
遠山はおかしくて笑った。
何を思ったか、ナオミは窓を開けた。凛とした空気がなだれ込んできた。しばらくして、雀は窓の方にちょんちょんと向かった。そして、次の瞬間、雀は大空に羽ばたいていった。
「ほら、翼は傷ついても、癒せば、空を飛べるんだ。昇だって、飛べるよ」と微笑んだ。遠い昔の母のように優しかった。その夜、遠山はナオミを抱いた。本当に恋しいと思ったからだ。
数年後、遠山は世に認められそうになったとき、一人の友人が忠告した。
「身持ちの悪い女と一緒に暮らしているという話を聞いたぞ。悪いことは言わない。別れろ」
その一言でナオミを捨てた。『さようなら』と書いた一枚の紙を残して。
二十年が過ぎた。
遠山はがんに病んだ。先が長くない気がした。昔のことをあれこれと思い出し涙した。
ある日、ナオミの夢を見た。とても懐かしく思った。当時のことをあらためて考えると、優しく、いつも自分のことを考えてくれた。『あなたの夢は私の夢、あなたは大きな翼』がと励ましてくれた。新人の登竜門といわれる美術展で入選したとき、ゴミのように捨てた。 自分の罪深さを思うと涙が止まらなかった。
日ましにナオミに会いたいと思いという思いが強くなった。そして今が幸せなのかを知りたかった。もしも、幸せでないなら、幾分かの援助をしてもかまわないと思った。故郷を訪ねることにした。
二人で一緒に暮らしたアパートの近くにあったタバコ屋が残っていた。そこの主人がナオミのことを覚えていた。主人がいうには、遠山が消えた後、すぐに別の男と一緒になったという。その男は甲斐性なしで、女を食い物にする男だった。
「ひどい男だったよ。二人の間に娘が生まれても、金を一銭も渡さないばかりか、金をせしめてね。金がないと暴力を振るったよ。どうして、あんな悪党に惚れたのかね? 好きだった男に捨てられて、やけっぱちになったみたいだったけど。娘が生まれたとき、そいつは自分の子じゃないと言い張った。娘が三歳のとき、この町から消えた。多額の借金を残したまま。彼女はひどい苦労を重ねたせいか、一人娘が十八歳になったとき死んだよ。娘はとても優しい娘で、長い間、母親の看病をした。今は駅前のスナックで働いているよ」
遠山はナオミの娘のミキを訪ねた。 客の振りをして店に入った。親とそっくりの顔立ちしていたので、ミキをすぐに見つけることができた。まるでナオミがそこにいるような錯覚を覚えた。
「どうしたの? 私の顔に何かついている?」とミキが聞いた。
「いや、何もただ遠い昔の知り合いによく似ていてね」と答えた。
「他人の空似よ」とミキが微笑んだ。
「つまらないことを聞いていいかね?」
「何?」
「今は幸せかね?」と聞くと、
ミキはまた笑った。そうえば、ナオミもよく笑ったことを思い出した。
「なぜ、そんなに笑う?」
「だって、そんなの、分からない。そう言うおじさんこそ、幸せなの?」
それは想定もしない問いで、遠山を当惑させた。