鳩の来る部屋
「俺の部屋なー、夜になると鳩が来るんだよ」
夜が更けて、そろそろ酔いも回り始めたかと思う頃、唐突に楢橋が言った。
「鳩ォ?」
俺が聞き返すと、楢橋はそうそう、と頷いて、
「窓ガラスをコツコツってやってさ、可愛いんだぜー」
と、にやにや笑っている。引越し祝いにと俺が持って来たウイスキーの瓶はとっくに空になっていた。
「へーえ。毎晩?」
「そ、毎晩」
「煩くないのか?」
「いや、別に気にならない」
「相変わらず図太ぇなあ」
「よけーなお世話だヨ」
楢橋はそう言って冷蔵庫を開け、また新しい缶ビールのプルトップを引いた。
「もう一杯どうだ?」
言葉よりも早く、楢橋の手は俺のコップにビールを注いでいる。
俺はもうそろそろ限界が来ていたのだが、ここで断るとまた面倒なので、大人しく頂いておくことにした。一息にぐいと呷る。
「おー、いい飲みッぷり」
楢橋はとても楽しそうだ。馬鹿野郎、ザルのお前と一緒にすんな、と言いたかったが、そんな長い台詞は言えそうになかった。
「うわやっべ、終電逃したわ」
ちょっとうとうとしてから、はっと目を覚まして時計を見ると、もうとっくに日付が変わっていた。
「んー……? もうこんな時間か。じゃあ泊まってけよ。そーだ、俺のベッド貸しちゃるよ。そしたら俺の話ほんとだってのがわかる」
同じくいままで眠りこけていたらしい楢橋が立ち上がった。
「いや、いいって。そこまでしてくれなくても。第一そしたらお前どこに寝んだよ」
「俺はこのソファで寝るから構わんさ。それにうちにはまだ客用布団なんて気の利いたもんはない」
(鳩ねェ……)
正直俺は鳩なんてどうでも良かったし、窓をコツコツと叩くのが可愛いとも思えなかったのだが、結局楢橋の勧めを断り切れず、奴のベッドに一晩世話になることになった。
「じゃあお休み、また明日な」
「おう、お休み」
パタン、と寝室とリビングの間のドアが閉まる。常夜灯だけが点った寝室は狭くて薄暗かった。引越したばかりとあって、殺風景だ。まだ本の入っていない本棚に、開けられていない段ボール箱、そして窓際に置かれたベッド。鳩が来るというのはこの窓なのだろう。
(さて、と。じゃあ寝ますか)
俺は意外にもしっかり整えられていたベッドに潜り込んだ。
(どーせ朝までぐっすりだ。目を覚ましやしないさ)
体中を巡るアルコールに身を任せておけば大丈夫だ。
と、思って寝返りを打ったのだが、この日は妙に頭が冴えてしまってなかなか寝付けなかった。
コツコツ、コツコツ。
ようやくうとうとしかけた頃、俺は窓を叩く音で目が覚めた。
(ああ……、鳩ってマジだったのか……)
コツコツ、コツコツ。
確かに楢橋の言っていた通り、窓をつつく音は控えめで、それほど煩くはない。まあそのうち止むだろう、そう思って俺は再び目を瞑った。
コツコツ、コツコツ、カタン、カラカラカラ……。
鳩はどうにかして窓を開けてしまったらしい。中に入ってくる気配がする。
(おいおい、こんなの聞いてねえぞ)
さすがにこれはまずいと思い、俺は起き上がろうとする。が、目が開かない。身体が動かない。
(金縛りかよ……。畜生、こんな時に!)
トトトトトトト……。
鳩の奴、壁際を歩いているようだ。
(うわ、マジ、これやべえって)
トトトトトトト……。
気配は壁際から天井へと移動する。
(ん? 鳩にしちゃ動きがおかしくねえか、これ)
移動する何かの気配は俺の真上あたりの天井でぴたりと止まった。目は開かない。身体も依然として動かない。
気味が悪いほどの静寂。
それがどのくらい続いたのか、ほんの三十秒だったのか、十分もそうしていたのか、俺にはわからない。
全部夢だったのかもしれない、と、ほっと緊張を緩めた時に、それは落ちてきた。
瞬間、衝撃と共に金縛りが解け、目を開けた俺は、胸の上に乗った男の顔とばっちり目があった。
意識を取り戻したのは朝だった。気を失っていたらしい。
恐る恐る胸の上を見る。
男の顔は、もうどこにもなかった。
ベッドから抜け出して、リビングに入る。ちょうど楢橋が起き出したところだった。
「おはよーさん。よく眠れたか?」
「ああ、気絶したみてーによく眠れたよ」
爽やかに挨拶されて、俺は嫌味のつもりでそう答えた。
「そりゃ良かった」
楢橋は意に介さずといった調子だ。いや、本当に何もわかっていないのか。
「鳩、来たぜ」
「おーやっぱりな。可愛かっただろ」
「可愛いのは窓を叩くまでだな。お前、あんな部屋に俺を泊めるなんて何のつもりだよ。大変だったぞ」
俺が言うと、楢橋はきょとんとして、
「ん? 大変って、何の話だ? 俺いつもコツコツって聞こえたあたりで寝ちゃうから、その後に鳩がどうなってるのかは知らん」
あれから一年、楢橋は何事もなく暮らしている。時々宅飲みに誘われるが、もう二度と奴の部屋に行きたくはない。