枯淡 2
そう確信している一が職員室に行くと、既に数人の教師が書類を確認したり小テストの採点をしていたりと忙しく仕事をしていた。そのうちの一人…こちらを見て手を挙げた一人に、一は小走りで駆け寄った。やはりというか、学校に来たばかりらしい。鞄からものは出していないし、机の上もさほど散らかってはいなかった。
「おぅ、早いな。おはよう」
「おはようございます。早かったんですか?」
「まぁな。でも、早いからって悪いわけでもないからな」
そう言って、その教師…猿渡はデスクの端においてあるA3の封筒を指差した。
はっきり言って…分厚い。
「…なんですかこれ」
「斉藤から送られてきたスコア。あと、リンから合唱のピアノ譜と、四部合唱と三部合唱用の各パートの譜面。歌詞の方はお前らで考えたんやろ?あとはそっちで色々と合わせて変えろって書いとった。で、もう一つは来月の各個人レッスン日程と、課題の譜面。ちゃんとコピーして渡しとけ~」
「………これ、俺の仕事ですか?」
「それぞれに渡すのは時間かかるからな。生徒総会前の打ち合わせまでに渡しとけ。俺、明後日から出張やし」
「あぁ~…了解しました」
ずしりと重い紙媒体を抱え、職員室を出る。確かに生徒総会の打ち合わせで会うし、そろそろ文化祭の準備などもあるから各部、各科の代表と顔を合わせることだって多い。
「あ、会長!おはようございま…どうしたんですか、その封筒」
「さるわっちゃんからのお使い…?」
だからと言って、生徒会長に教師の仕事を押し付けてほしくはない…と思う。忙しいんだ自分だって…。
「かいちょ~?落ち込まないで、そろそろ出た方がいいですよ?朝のHR始ります」
「げ、」
封筒をデスクにおいて、慌てて外に出る。
「おぉ一、廊下は走ったらあかんやろ~」
「そーいうお前はたまには朝から教室来いや!」
「会長速度あげて~!」
自分とは逆方向の棟に向かう友人達に振り返ってそう叫ぶ。
こんな朝もまた、一の日常だった。
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滝本可奈は、少々戸惑っていた。夏休み前の、ほんの僅かな時期。コンクール前の練習ということで、何とか時間を取ってもらって赴いた東京。夏休みに入ったら先輩や他の生徒の指導で手一杯になると踏んで、先生に何とか頼んできたのだが…。
「やっぱり、忙しかったですか?リン先輩」
「ん?いや、そんなことはないよ。ちょっと、ここまで来るのに大変なだけだしね」
「可奈が遠慮することあらへんと思うで?勉強熱心な生徒は大歓迎や。ま、リンは大変やけどなぁ」
「はは…。ま、俺のことはいいから、とりあえず最初から行こうか。昨日言ったところは覚えてるよね?」
「はい!」
目の前で、包帯を手慣れたように巻きつつも譜面から目を離さないその人は、可奈にとって目標であり憧れだった。この人がいたからチェロをやりたいと思い、六楽園の高校に入った。いまだに自分の楽器なんて高くて買えないけれども、学校のとはいえ弾きたいと思っていた楽器を手にできることが、嬉しかった。
自分より上手い後輩もいるし、先輩もいる。それでも何とか学年で上位に食い込めてきたのは、才能や金など関係ないというほどの意地と情熱があるからじゃないかと、先生に言われたこともあった。それでもやっぱり、経験には適わないだろう。
「三小節戻ったところから、もう一回」
「はい」
「そこ、短い。もう少し長く」
「はい」
今は音楽から遠ざかった生活をしているが、目の前の人は、今の自分よりも幼いころから楽器と生きてきた天才だった。この人だけじゃない、この人と同期の先輩は、たとえ音楽や芸術から離れた職についていようとも、自分達にとっては憧れだ。黄金時代、なんて大げさかもしれないが、多くの人がこの年の卒業生は化け物じみた奴らだった、なんていう。
そんな風になりたいといえば、いつだって彼らから返ってくるのは、「憧れることは大事だし嬉しいが、自分の音楽を潰すな」という言葉だった。
「ほんなら、俺はちょっと仕事してくるかな」
壁際にいた一人…リン先輩とは幼馴染だというその人の声とともに、扉が開いて、閉じる音が聞こえる。
「ほら、集中集中」
「は、はいっ」
ここは、その人の自宅の、一室。防音設備のととのった、小さなスタジオだった。
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「そういえば、聞きました、先輩」
「?何が?」
「一から、先々週に入った、仕事のこと」
「あぁ、あれねぇ」
レッスンをいったん中断して、昼食。先輩方お勧めだという近くの寿司屋からの出前だ。届けてくれた人が外国の人だったのには驚いたが、どうやらそういうお店らしい。
「ロウ先輩も、一緒にやったんですよね?」
「あぁ、完全な裏方やったけどな。ま、リンの後任ってことで新しい子がいて、その子らの指導とか、説明とかしとった」
「これからもお世話になります、ロウ」
「おぅ!」
そう、二週間前。一がう~う~唸っていたとある案件。それは、私にとっては新しい世界を知った切欠でもあった。
「あれで可奈がこっちの仕事を知るとは、思いもしなかったけど」
「あはは……でもまぁ、何とか無事に終わってよかったです。おばさんの家からあんなものが出てくるとは思わなかったですけど」
「あぁそうか、可奈のおばさんの家だったっけ」
「学校には園のほうが近いから、そっちに住んどるんやったな」
「はい…。一達が私がよく知らない仕事でちょくちょく外出してるのは知ってたんですけど、まさか、えっと………」
「オカルト関係とは思ってもなかった…やろ」
「はい…。なので、出かける先がおばさんの家だって聞いたときは、びっくりしました」
時間は、二週間前に遡る。場所は現在住んでいる京都から、大阪へ。可奈の母方の伯母が、そこに住んでいた。