これからもずっと同じように
「浅野」
背中に呼び掛ける。返事が無いことは承知の上でそうしたのは、単なる嫌がらせだ。それか、八つ当たり。どちらも同じようなものだ。悪意という総称でまとめれば間違いはない。僕はいつも全力で浅野を叩きのめそうとしている。
彼は空を眺めていた。幼少の頃からの彼を知っている者たちからすれば、あまり不思議なことではない。浅野はいつも窓の外を眺めていた。どこに行きたいのか、現実から逃げ出そうと足掻いたのか。ぼんやりと、なんの希望も見出せないみたいな冷めた目をして、浅野は残酷なほど美しい青を瞼の裏に焼きつけようとしていた。
自分のペースを崩すことを嫌う人間だったから、浅野は学校が大嫌いだった。押しつけがましい教師も、同じものを共有しようとする生徒たちもみんな、浅野は嫌いだった。と僕は認識している。浅野が学校に来ているほとんどの意味は、気の良い仲間が居る部活動と、浅野が大切に思う彼女のおかげだった。
「ヨウ君」
わざと、呼んでやる。彼女は浅野をそう呼んでいたので。悪趣味だと分かっていても、やめられない。
浅野はついに嫌そうな顔をして振り返った。そういう表情は決まって、対僕用に作りだされたものだ。元々表情の起伏さえ少なかった男が、僕にだけは的確な悪意を――殺意を、向けるようになった。最初はつとめて、ひそかに。今は隠すこともなく。中高生の恋愛など子供のお飯事のようなものだと僕は笑う。それでも浅野が本気だったことは、僕だって知っている。
「彼女が本州に行ってしまうのは、いつだっけ？」
僕は楽しそうに嘯く。浅野は、顔をしかめて、射るような瞳で僕を見据えた。
僕は夢想する。
浅野のポケットから、ケータイが転がり落ちるのと同じくらいの軽さで、ナイフが出てくることを。
柄の部分を軽く握り、僕の腹にそれが突き立てられるところを。
彼に殺されることを。
そんなことを、考えている。考えさせるような気迫が、彼にはある。湧きあがる確かな恐怖をなんとか鎮めるのは、浅野が結局は賢くて愚かな男だからと、僕が知っているからだ。理性のタガをどこまでも外せないでいる臆病で理知的な面が、浅野に根付いていることを僕は知っている。踏み外さないし、踏みだせない。時折哀れだとすら、思う。
浅野はどこにも行けないのだ。
「あんた、なにしに来たわけ」
浅野はうんざりと、めんどうそうに呟いた。いつもは一分一秒も僕と居たくないという顔をするくせに。僕は笑う。これが大人の余裕ってやつだよ、浅野。そんな言葉を袂に隠して。
「俺、あんたの事ガキの頃から大嫌いだって、知ってるよね」
「そうだったかい」
「そうだよ。人の不幸は蜜の味って奴のこと、好きになるわけねーだろ」
怨嗟を吐き出すような言葉だ。
僕は笑う。
「でも彼女は、僕を好きになったでしょう？」
浅野がもう一度、僕を仰いだ。睨むように挑むように、こちらをねめつけて居るのだろうと思った瞳は、いつも空を眺めている時の瞳と、同じだった。青を望んでいるあの瞳が、しばらくして、僕を見据えた。
「あんたまさか、それ言いにわざわざ、此処まで来たの」
浅野は視線を、僕の後ろに移す。また、見上げているのだろう。青い空を、なんとはなしに僕も目で追ってみた。
飛行機雲が鮮やかに、青の上をなぞって行った。
「これでほんとのさよなら」
浅野は立ち上がった。
ジーンズに付着した細かい砂をはらう仕草をみて、ここが海だったことを思いだした。
浅野と「あの子」はいつも、ここを一緒に歩いていた。
「あんたあの子のこと、幸せにしてやってよ」
「いいのかい」
「俺に選択権あるかよ。俺フられてんだぞ、知ってんだろ」
言って穏やかに笑う彼の横顔を見て、僕はなんだか拍子抜けしてしまった。きっと彼女を返せと、必死で奪っていった僕に、それ以上に必死で縋りついてくるものだと思っていたのに。実際彼女を奪うのだって、僕は必死だった。どうすれば彼女が、浅野よりも僕を見てくれるのか、大人げなく、性懲りもなく、彼女に触れ続けた。
「で、あんたはいつ本州行くの」
「仕事が長引いて。面倒が多くてね。ようやく全部投げ出して、彼女の元さ」
「待たせんなよ、いい大人が」
浅野は笑う。僕は本当に、こいつは馬鹿だと呆れた。呆れて、かわいそうになる。僕は、僕を好きになってくれたあの子を、もう手放す気は無い。彼女が時折、浅野と同じように空を見上げれば、背中から抱きしめて僕の檻の中に閉じ込めてしまう。そんな、ろくでもない男だ。きっと、この馬鹿男と同じくらい、どうしようもない。だから、「君は馬鹿だな」、と僕は言った。 浅野からのいらえはなかった。ただ少しだけ口元を歪めたようにも、見えたが、真相は、わからない。
飛行機雲がくずれてゆく。
大気にまざり、やがて青の中に消える。
浅野はそれを見上げていた。
作品名：これからもずっと同じように 作家名：サトー