遠回りをしよう
鏡に映る顔は、そりゃあ普通の、どこにでもいる男の顔だと思う。朝はどうやらさっさと着替えないとメイドさんたちに襲撃されて着替えさせられるっていう仕組みであることを翌日から俺は思い知り、ひと月あまり経ったいまじゃこうしてメイドさんに朝のパンをサービスできるまでになった。店をやってたころとなんら変わりのない朝は、逆に俺を安心させる。
「美味しいですっ!なんていうパンですか?」
「それはブール。そっちはダッチブレッドっていうんだ」
おかげで俺を朝起こす係はメイドさんたちの憧れの役らしい。なんか嬉しくなる。と同時に、慣れたなあと思うわけだ。
前までならひと月に四度しか顔を合わせていなかったアルと、毎日のように長く一緒にいるようになった。話すことはあまりかわらないけれど、なんとなく俺の対応はぎこちなくなっている。なんていうか、申し訳ないというか…、どんな顔をしてアルに会えば「後宮」らしいのか、俺にはわからなかった。自分でも分かる。なんだかしらないけれど、ただ便宜上の後宮であるにも関わらず俺はそれを意識しすぎているのだ。
「…おはよう、エリオット」
「お、早いな!おはよう、レオンくん」
そんなふさぎがちの俺の癒やしはもっぱらこのレオンハートことレオンくんだね。あれから少し経って、赤くなりながら「…レオンでいい」といって来たときには思わずアルに延々自慢しにいったくらいだ。アルは相変わらず苦い顔だったけど。
レオンくんはいつも、かれの家庭教師が来る昼前まで俺のところに遊びにくる。パンを焼いたり、レシピを見せたり、それから街の子供たちの遊びを教えたりして一緒になって遊んだ。気まぐれにレオンくんが弾いてくれるヴァイオリンはプロかってくらい上手い。この城の住民はみんなハイスペックなんじゃないかって思わせた。
そういや、レオンくんのお母さんは俺のパンをとても気に入ってくれたらしい。パンを焼くと決まってレオンくんが麗しい女性を連れて中庭にやってきて、お茶をご馳走になりながらパンを食べることが多かった。やっぱり俺後宮じゃなくてパン職人なんじゃないかな。
「じっと鏡なんか見て、どうしたの」
メイドさんたちと入れ替わりに部屋に入ってきたレオンくんは、鏡台の前でなんとなくぼうっとしていた俺に歩み寄ってきた。兄であるアルよりすこし色の薄くてやわい金髪が、朝日にきらきらと輝いている。
「いや、やっぱり俺は後宮には似つかわしくないなあとしみじみ」
「そんなことないよ」
レオンくんは俺を励まそうというのか、そんなことをいってくれた。ぎゅっと俺の手を握り、出会ったころと比べたらずいぶん年相応の笑顔になる。胸がじーんと暖かくなった。まじ天使。
「エリオットはとても綺麗な目をしてる。嘘をつかない目だ」
レオンくんの、幼いながらも真剣な声に思わず俺は感動をしていた。こうしてかれが俺を信頼してくれるのが、俺はたまらなく嬉しい。ぐしゃぐしゃっとレオンくんの髪をかき混ぜて、俺はありがとな、といって立ち上がった。昨日からアルに頼まれていたバケッドがそろそろ焼きあがるころだろう。
「アルのところにパンを届けに行くけど、ついてくる?今日はなにしようか」
俺の黒い髪と黒い目が、鏡台に映っていた。艶やかに靡くわけでもない髪を指先に絡め、俺はつくでもなしにため息をつく。レオンくんは僅かに躊躇ってから、厨房で待ってる、といった。
「わかった。じゃ、いこう」
長い廊下も入り組んだ道も、まだいまいちわからない。だけど厨房までの道は迷わないで進むことができた。
「…なんできみとアルは仲が悪いの?」
「兄さんは、きみになにも言ってないの?」
いまなら答えてくれるかな、といってみた問いかけはぐさっと胸に刺さる答えになって返ってきた。苦笑いをして頷けば、レオンくんが不満げに眉を寄せる。
「兄さんはずるい。ずるいけど、不器用だ」
「どういうこと?」
レオンくんは子供らしくもなく肩をすくめると、本人に聞きなよと涼しい顔をした。やっぱりそうなるのか。難しい顔をした俺を見かねたのか、俺の耳に顔を寄せたレオンくんがヒントらしきものをくれる。
「兄さんは僕に負い目があるんだ。僕も兄さんに負い目がある」
…まあ、俗にいう謎を深めるヒントだったけどな。そんなこんなで厨房について、焼きたてのバケッドを抱えて俺はもう一度来た道を引き返そうとした。レオンくんが勝手に生地を作り始めてるのが大変微笑ましい。
「エリオット」
そうやって俺の名を呼ぶ声のトーンが、びっくりするくらいアルに似ていた。勢いよく振り向いた俺を見てちいさく笑ったレオンくんは、どこか苦しそうな顔をしている。アルとそっくりだ、と思った。
「兄さんの後宮でいるのに疲れたら、いつでも僕にいってね。僕専属のパン職人にしてあげる」
そして苦しそうに、天使はそう吐き出した。ありがとう、と言った俺はきちんと笑えていただろうか。俺の知る辺もないきょうだいの確執に、自分が何も知らないことにわれながら動揺をしてしまっていたのだけれど。