遠回りをしよう
「ほら、レオン!家庭教師が待ってるぞ」
「今日は休み」
「…サボったな」
まだ包帯の取れない右腕のことを、レオンくんはひどく心配してくれていた。というのもあのあとしばらくしてアルがいきなり、
「レオンが泣きじゃくっていたからあとで顔を見せてやってくれ。自分からここに来れないくらいに参ってる」
なんて言ってきたもんだからとるものもとりあえずレオンくんの部屋に言って大丈夫だから!と言ってきたんだけど(抱きつかれた。まじ天使)、なんかアルに拗ねられた。なんなんだこの兄弟。
それからはいつものように俺の部屋に遊びにきてくれているレオンくんは、腕が使えなきゃ暇だろうって俺の部屋で仕事をしているアルとこうして喧嘩をするから困りものだ。10歳ちかく年が離れてるのに大人気ないったらない。
「兄さんもさっきからお仕事進んでないみたいだけど?」
で、基本レオンくんのほうが上手だ。ぐうと言葉に詰まったアルを見て、レオンくんが俺の手を掴む。
「ねえエリオット、まだ飲まないの?例の約束」
「んー、いまのところはいいかな」
例の約束、というのはもちろんアルの後宮でいるのがいやになったらレオンくんが専属パン職人にしてくれるっていうやつのことなんだけど、レオンくんは最近よくこれをほのめかすようになった。もちろんアルを煽るためなんだけど、アルもそりゃもう簡単に煽られるから困りものである。ガキだ。下町の子供たちは元気だろうか…とホームシックになりかけた俺が腰掛けていたソファのかたわらに、ついに書類を投げ出したアルが歩み寄ってきた。
「あまりエリオットに無理をさせるなよ」
「大丈夫だって」
レオンくんに安心させるよう笑いかけて、俺は動くようになってきた右手を持ち上げる。それを慎重に掴みあげて、アルが膝の上に載せた。なんとなく照れくさいので腕を引っ込める。そんな拗ねた顔するんじゃない、王様。
あのあと、先の王妃さま…つまりレオンくんのお母さんが、わざわざ俺を見舞いに部屋まで来てくれた。きっと遠慮したアルが一度席を外してから、彼女は俺にありがとうね、と微笑んでくれた。今まで見たどんな女性の笑顔より、きれいな笑顔だった。
「わたしの息子をふたりとも、助けてくれて」
それを聞いたとき、不覚にも俺は涙腺が緩んだものだ。生まれがどうあれ、育ちがどうあれ、アルもレオンくんも彼女の大事な子供なんだと俺は身に沁みて思った。やっぱり母って強い。
ふたりには秘密よ、と釘を刺されたから俺を挟んで喧嘩してるきょうだいにはまだこのことを言ってない。だけど俺の腕がよくなったら、またレオンくんと一緒にパンを焼いて中庭でお茶会をしたいと思っている。そのときは、アルも一緒に。
なんだかやっぱり俺はパン職人が向いているのかもしれない、としみじみ思うのだ。もちろんいい意味で。
「レオンハート様!やはりこちらにいらっしゃいましたか!」
いきなり部屋の扉が開いて驚いたら、ハイスペックじいさんが立っていた。…お前、仮にも執事ならロックくらいしろよ、と思ったのも無理はないと思う。
「そこらへんどうなんだよ、アル」
「あれは俺の執事の双子の弟だ。俺には関係ない」
はいはいそうですか、って、いらねえよそんな知識!
腕を掴まれてひきづられていくレオンくんに頑張ってな!と声をかけ、俺は苦笑いをする。勢いよく頭を下げたハイスペックじいさん(弟)につられて頭を下げた俺に、アルが呆れたようになにしてるんだ、と言った。
「…で、結局なんなんだよ、例の約束って」
「秘密!」
レオンくんがなにかを言ってる声がまだ聞こえてくる。それが遠ざかってから、アルが憮然とした顔で言ってきた。それを笑いながら遮って、俺はやっぱりかわいいなあと思う。弟みたいだ。
「…なんで笑うんだ」
不服そうな顔をしたアルが面白くって笑ったら、憮然とした顔で鼻をつままれる。ふがふが言ってたら離してくれたけど。
なんだかんだ言って、まだ正直俺はこの子供っぽい賢王に相応しい後宮じゃない。たとえアルがその、俺を愛してくれていてもだ。でも俺は、頑張らなくちゃなーなんて思うようになっていた。遠い目で。もちろんそれは、あの一件があったせいだ。恥ずかしいから蒸し返さないようにしてるけど。
「エリオット?」
急に黙り込んだ俺に、アルが声をかけてきた。心配そうに俺の顔を覗き込むアルを首を振ってごまかして、俺はアルに笑いかける。
「俺の腕が治ったらさ、最初に焼くパン、なにがいい?」
するとアルは、少し考える素振りを見せてから、くしゃりと子供っぽく笑った。
「やっぱり、いつものあの長いやつがいい」
「バケッドな。わかった、楽しみにしてろ」
胸を張っていえば、アルが笑いながら俺を抱き寄せた。ソファが軋む音がする。びっくりしてアルを見上げると、ごつんと額がぶつかった。アルが微笑んでいる。きれいに、やさしく、幸せそうに。
「そうだな。楽しみにしてる」
ゆっくり瞼を閉じる。重なる唇がひどくやさしくて、俺は幸福だなあと思った。